昨日、通勤の往復で、「墨攻:酒見賢一著」という本を読んだ。来年初、この本を題材に漫画化されたものが映画化される。この本は、中島敦記念賞を受賞している。中島敦は、かの「山月記」の作者だ。正直非常に短い本で、あっというまに読み終えた。墨とは入れ墨のことらしい。すなわち墨子は入れ墨の人という感じだ。宋の生まれといわれている。そういえば孔子も宋の生まれだ。ちなみに宋の国は、周が滅ぼした殷の一族の国である。墨子は、元々は大工だとも言われている。それが後の守城の武器造りに活かされる。墨子は孔子同様に学団をつくります。これを墨家集団といいます。墨家は二代目鉅子(指導者)禽滑釐の時に思想統一がなされました。この本は、それより後の話となります。さて非攻墨守という言葉がある。墨守とは、{墨子がよく城を守り通し、楚軍を退けたという故事から}昔からのしきたりや自説を固く守ることを言う。秦の始皇帝以降、2000年という中国の長い歴史から跡形も無く消された「墨家集団」の逸話としては面白いが、墨子の根本である兼愛思想からすれば、城を守る規律のために、人を罰し斬首する光景は少し違和感を覚えた。まあ如何なる映画となるのか楽しみである。映像にすると緊迫感のあるものになるかも知れない。
ちなみに
墨子 第十七:非攻上
今ここに1人の男がいて、他人の果樹園に忍び込み、桃や李を盗んだとしましょう。民衆がそれを知ったならば、それを悪だと非難するでしょうし、統治者がその男を逮捕したなら、処罰するでしょう。それはどうしてでしょうか。他人に損害を与えて自己の利益を得たからです。他人の犬や鶏や豚を盗む者は、桃や李を盗む者よりも、その不義は一層甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、さらに大きいからです。他人の馬や牛を奪い取る者は、犬や鶏や豚を盗む者よりも、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。およそ他者に損害を及ぼす程度が多くなるにつれ、その行為が不仁である度合もますます増大し、その罪もいよいよ重くなるのです。何の罪もない人間を殺害して、着ていた衣服を剥ぎ取り、所持していた戈や剣を奪い去る者に至っては、馬や牛を奪い取る者より、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。ところが今、大規模な不義を働いて、他国を攻撃するに至っては、だれもその行為を非難することを知りません。攻伐を称賛し、その行為を正義の戦いなどと評価しています。1人の人間を殺害すれば、社会はその行為を不義と判定し、必ず死刑に処します。こうした殺人罪に関しては天下の君子たちの誰もがこれを非難すべきことと認識し、これを不正義だと判断しています。ところが今、大掛かりな不義を働いて他国を侵略するに至っては、一向に非難すべきことを知りません。侵略を褒め称えては、義戦などと美化しています。つまり彼らは、実際に侵略戦争が不義であることを認識していないのです。今ここに人がいるとしましょう。その人間が少量の黒色を見たとき黒だといい、多量の黒色を見たときには白だと言えば、人々はその人間を白と黒の識別すらつかぬ者だと判定するでしょう。あるいは、苦いものを少し嘗めては苦いといい、苦いものを大量に嘗めては甘かったなどといえば、だれもがこの人間を甘い苦いの弁別さえできぬ者だと判定するでしょう。今の君子たちは、小規模な悪事は犯罪だと認識して非難しておきながら、大規模な悪事を働いて他国に侵攻すれば、それを褒め上げ、これぞ正義だと吹聴しています。これでは、はたして正義と不義との区別を知覚しているなどと言い張れるでしょうか。
墨子 第十四:兼愛上
とあります。
「兼愛」はキリスト教の「慈愛」であり、この非攻は、世界平和に通じるが、墨子を生んだ中国とキリスト教を信仰する人々の国が世界で一番殺戮を犯しているのは皮肉としか言いようが無い。