宮城谷昌光著「三国志 第11巻」完読。 あと一冊となりました。最終巻は、来年5月らしい。
諸葛亮、五丈原に薨ず。宮城谷三国志、いよいよ佳境へ!
諸葛亮亡き後、魏延と楊儀が対立。蜀は衰退を始める。魏でも皇帝・曹叡が急死し政権運営を巡って混乱が起こる。時代は新たな局面へ。
「麒麟も老いては駑馬にも劣る」三国王朝の創始者の一人、孫権の老害が甚だしい。そうした、孫権の老いとともに呉の没落が始まる。
宮城谷昌光著「三国志 第11巻」完読。 あと一冊となりました。最終巻は、来年5月らしい。
諸葛亮、五丈原に薨ず。宮城谷三国志、いよいよ佳境へ!
諸葛亮亡き後、魏延と楊儀が対立。蜀は衰退を始める。魏でも皇帝・曹叡が急死し政権運営を巡って混乱が起こる。時代は新たな局面へ。
「麒麟も老いては駑馬にも劣る」三国王朝の創始者の一人、孫権の老害が甚だしい。そうした、孫権の老いとともに呉の没落が始まる。
吉川永青著「戯史三国志」三部作 第3弾「我が土は何を育む」を読む。
[E:book]
救いたい、その一心で嫂を手にかけた黄巾の子、廖淳。若き日の劉備に拾われ、関羽や張飛の下で武芸を学び、やがて少年は心底の後悔から自らを解き放つ。そして「三顧の礼」で迎え入れられた諸葛亮。俊才だが変人の軍師に気に入られた廖淳は、武将としての才覚を現していく。まったく新しい三國志。
「戯史三国志 我が槍は覇道の翼」吉川永青著 を読む。戯史三国志シリーズ第2弾である。
[E:book]
官軍に失望し、賊将となっていた程普。だが孫堅という大志を抱いた将に出会い、彼の運命は変わる。「主君を皇帝に」。しかし主が志半ばで倒れてから彼の中に芽生えたのは、若く有能な軍師・周瑜への言いようのない嫉妬と焦りだった。そして運命を決める「赤壁の戦い」が迫る。まったく新しい三國志。
吉永永青著「三国志 わが糸は誰が操る」を読む。
董卓に想い人を奪われた若き日の陳宮。己の無力に打ちひしがれていた時「俺の臣になれ」と言う男・曹操が現れ、彼の人生を変えた。名将に重用されながら、呂布に寝返った謀将。その愚行の裏には知られざる熱い友情と真心の物語があった。まったく新しい三國志、第一弾。「小説現代長編新人賞」奨励賞受賞作。
酒見賢一著 「泣き虫弱虫諸葛孔明」第壱部、弐部を読む。
口喧嘩無敗を誇り、いじめた相手には得意の火計(放火)で恨みを晴らす―なんともイヤな子供だった諸葛孔明。奇怪な衣装に身を包み、宇宙の神秘を滔々と説いて人を煙に巻くアブナイ男に、どうしてあの劉備玄徳がわざわざ「三顧の礼」を尽くしたのか?新解釈にあふれ無類に面白い酒見版「三国志」待望の文庫化。
秋風五丈原。死せる孔明、生ける仲達を走らす!で名を馳せた司馬仲達から視た三国志時代の小説だ。ただ、宿敵・諸葛孔明率いる蜀軍と五丈原の戦いは軽くあしらわれている。孔明ファンには、怒りを買いそうな仲達の言葉も目立つ。仲達の視点からの物語だから致し方ない。しかし、孔明の仕掛けた罠は孔明の死後も思わぬ容で呉に息づく。それは・・・・。読んでのお楽しみか。
「呂蒙」に引き続き「陸遜~太佐 順(PHP文庫)」を読んだ。蜀の諸葛孔明、魏の司馬仲達と並び称されたのが呉の陸遜だ。呂蒙に見込まれ、関羽を油断させ、不意打ちを食らわす段になってからめざましい働きをするようになった。関羽の復讐戦を挑んできた劉備に対し、孫権から迎撃軍の指揮官に任じられた陸遜は、持久戦に持ち込む。(夷陵の戦い)対峙すること約半年。はやる自軍の武将を抑えて、補給線が伸びきったところを火攻めにした呉軍は大勝利を収め、陸遜はこの戦いで名実ともに大将軍となる。やがて丞相まで昇りつめ、まさに位人臣を極めた、最期は不遇だった。呉の後継者争いに巻き込まれ、孫権から流罪を言い渡されたことから悲痛のうちに憤死するのである。本書は、孫権・呂蒙によって見出され、孫権の命によって人生の幕を閉じた陸遜の波乱に満ちた生涯を描いた歴史小説である。当ブログで一番の検索ワード「石兵八陣」に登場するのが、この陸遜だが、本書には残念ながらこの記述は無い。呂蒙などもそうだが、とかく呉を中心にすえた三国志物では、蜀の人物は軽視されるからだ。
「呉下の阿蒙」「括目」で有名な三国時代の呉の知将「呂蒙」を描いた本がまたまたPHP文庫からでた。読む。 呂蒙は、蜀好きの三国志ファンには痛い存在だ。かの関羽将軍を見事な計略で追い詰め討ち取った知将だからだ。呉の兵権は、周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜と受け継がれていくのだが、呂蒙は元々武勇の士であった。教養は全くといってよいほど無かった。しかし、孫権から教養の大切さを諭されて勉学に励んだ。これにより軍略も身に着けた。全くの庶民であったことからもその有能さがわかる。三国志演義では、関羽の亡霊により、全身の穴という穴から血を吹いて死んだとされているが、関羽討伐時に既に病魔に侵されていたのが真実らしい。彼は、陸遜を自分の後継に指名して病死する。私は、ここでも登場する甘寧が呉の将軍の中では好きだ。
PHP文庫から出ている「荀彧」という本を読んだ。荀彧なくして曹操なしと謳われた魏の名軍師である。最期は、曹操と距離ができ、もはや不必要とされていると感じ、毒を仰ぎ死んだというのが定説(空の壷の話)であるが、本書は、そのように終わらせていない。また、漢室を重んじていたとされる説をも覆がえしている。むしろ、曹操に早く、漢四百年の重みを飛び越えよと箴言する姿がそこにある。正統三国志ファンには眉をひそめそうな展開だが、そういう作者独特の解読もおもしろい。さて、本書とは少し関係ないが、荀彧で一番の軍師としての名場面は、なんといっても曹操へ勇気づけの場面であろうか。
彧則見太祖。太祖乃以紹書示彧、曰、今将討不義而力不敵、如何。
彧曰、古之成敗者、誠有其才、雖弱必強。荀非其人、雖強易弱。
劉・項之存亡、足以観矣。
彧すなわち太祖に見まう。太祖すなわち紹の書を以て彧に示して曰く、
「今、不義を討たんとするも、力、敵せず、如何せん」彧曰く、
「古の成敗は、誠の其の才有れば、弱と雖も必ず強く、荀しくも其の人に
非されば、強と雖も弱め易し。劉・項の存亡、以て観るに足る矣。
昔から勝敗は人しだい。トップに其れだけの力(力量)があれば、弱くても必ず強大になる。逆にトップに人を得ていなければ、いかに強くても最期は弱くなる。これは、劉邦と項羽を見ればわかることだと、袁紹と曹操の人を比較して、袁紹は曹操の敵ではないと、弱音を吐く曹操を勇気づける。この言葉を得て、曹操は袁紹との対決を決意するにいたる。誠に王佐のすぐれた直言といえよう。
説着曹操 曹操就到<シュオチャツァオツァオ、ツァオツァオチウタオ> 曹操の話をすれば曹操が来る。 中国では、「噂をすれば影」をこのように言う。たぶん、曹操は各地に諜者をはなち、情報収集に余念がなかったのだ。徳川家康が伊賀忍者を使って情報収集していたのと同じであろう。昔も今も情報を制するものは・・・である。さて我々が目にする曹操はどうしても悪役だ。劉備や孔明、関羽が圧倒的に人気が高い。日本では、三国志といえば、吉川英治や横山光輝の影響をほとんどの者がうけているからだろう。しかし理由はそれだけではない。曹操が悪役になったにはちゃんと他に理由がある。曹操は、孔子の子孫の孔融を一族もろとも処刑した事や儒教そのものをないがしろにしたからである。陳寿や裴松之も儒者であり、羅貫中も儒者。三国志演義は、当然にして儒教的プロパガンダの脚色がなされている。中国と儒教はやはり切っても切り離せない。その為に曹操は少し悪役でいてほしかったのではないだろうか。織田信長はよく曹操の生まれ変わりといわれるが、実は曹操のこの儒教価値観の破壊と信長の仏教価値観の破壊というものが新しい世を創造するのに必要なのだという考えが非常に似ていたからではないかと思う。それに供に人材の登用に余念がなった。こうして二人を比べてみるのも面白い。でもそんなことをしていると、説着曹操 曹操就到かも・・・・
三国志の話。
東呉の大都督陸遜(りくそん)が大いに蜀の軍を負かした後、尚も追撃の手を緩めず魚腹浦(ぎょふくほ)という所まで来ると、河の砂州に石を積み上げた陣地が見えてきた。人っ子一人いないのに中に何故か殺気が漲っている。兵を率いてその中に進入したが、ただ怪石が剣の様に高く聳え、土と砂が山の如く積み上げられているだけ。やがて、万の太鼓を一度に鳴らした様な音と共にその土砂が波を打って崩れだしてきた。慌てて兵を引こうにも退路も閉ざされてしまう。いぶかり、途方にくれている時、何処からともなく一人の老人が現れ、陸遜達を導き助け出し一命を取り止める。この不思議さに老人に尋ねると「ここは諸葛孔明の手による八陣の図という石陣である。全部で八つの門があり、毎日毎日変化させているので十万の兵の攻撃にも耐えられる」との事。陸遜は驚き、「一年も前からこのような仕掛けをしていた孔明はまさに伏臥せる龍である。私はとうてい彼には及ばない・・・」と嘆き兵をひくのであった。すでに三国志も後半のところであるが、孔明の逸話としてはおもしろい。ところでかの高名な詩人杜甫はちなんで「八陣の図」という詩歌を詠んでいる。
功 蓋 三 分 国 (功は三分の国を蓋い)
名 成 八 陣 図 (名は八陣の図に成る)
江 流 石 不 転 (江は流るるも石は転せず)
遺 恨 失 呑 呉 (遺恨なり呉を呑むを失せしこと)
杜甫も孔明の人格と才能に思わず詠わずにはいられなかったのであろう。
諸葛亮孔明が好んで口ずさんでいたとされる楽府詩である。
歩 出 斉 城 門 (歩みて斉の城門を出れば)
遥 望 蕩 陰 里 (遥か蕩陰の里を望む)
里 中 有 三 墳 (里中に三墳あり)
累 累 正 相 似 (累々として正に相い似たり)
問 是 誰 家 墓 (問う 是れ たれの墓ぞと)
田 疆 古 冶 子 (田疆と古冶子なり)
力 能 排 南 山 (力は能く南山を排し)
文 能 絶 地 紀 (文は能く地紀を絶つ)
一 朝 被 讒 言 (一朝にして 讒言を被り)
二 桃 殺 三 士 (二桃もて三士を殺す)
誰 能 為 此 謀 (誰か能く 此の謀を為すや)
国 相 斉 晏 子 (国相なる斉の晏子なり)
孔明は、草櫨にあって斉の名宰相「晏子」のように社稷を尊び天下国家の経営に参与したい思いがあったのであろう。さてこの「晏子」を知ったのは、10年くらい前である。宮城谷昌光の「晏子」という本である。司馬遷が御者にまでなりたいと言った程の名宰相である。それまでは、名宰相といえば「倉禀実ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る」の名言で知られる管仲ぐらいであったが、三国志と宮城谷氏のおかげでいろいろ勉強したものである。この時期は、確か静岡に住んでいたはずだが、「重耳」「孟嘗君」などを長いなあと思いながらよく読んだものである。中国の歴史は本当にタメになるしおもしろい。昨年の4月に日露戦争の舞台である「旅順」「瀋陽」を訪問したが、これもまた言葉にしがたい感動を覚えたものである。まだまだ行きたい場所は数多くあるが 、今の日中関係ではそれもままならない。なんとも歯がゆいものである。
粛 蒙の背を拊ちて曰く「我 謂えらく大弟はただ武力あるのみと。今に至りて学識栄博にして、復た呉下の阿蒙にあらず」と。蒙曰く、「士 別れて三日なれば、すなわち更に刮目して相い待つべし」
三国志の中の好きな言葉の一つである。「士と称するものは、別れて三日もすれば思っている以上に成長しているものだ。よくよく目を凝らして見なければいけない。」という意味である。年をとるとどうしても若い者は駄目だとか、昔はこうじゃあなかったと批判じみてしまうけれど、そういう自分が時代に取り残されて、若い者はどんどん成長しているかもしれない。それを素直に受け入れ、気がつかないと恥をかくのは己かもしれない。と最近はこの言葉を受け取る。逆に若いころは、上に対して「今に見ておれ」とこの言葉を飲み込んでいたものである。変われば変わるものである。
そういえば、「論語」にも
子曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十、五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。
という言葉がある。若い者はどれほど伸びるかわからない可能性をもっているので決して侮ってはいけないというわけである。この年になり大いに考えさせられる。