2010年4月30日金曜日

のだめカンタービレ最終楽章 後編

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このところ見たい映画が多いのだが、転勤などで忙しく見れていない作品が多い。
あの「アバター」しかり「シャーロックホムズ」「オーケストラ」「ドン・ジョバンニ 天才劇作家とモーツァルトの出逢い」などなど。
そして今日やっとカミさんと映画に。「のだめ・・・」です。結局このところの映画鑑賞は「のだめ」の2本連続となりました。「のだめは・・」は、やはり何気にハイドンの弦楽四重奏曲第77番「皇帝」第二楽章やマスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲などバックで流すなどいいです。



さて後編のキー音楽は、ベートーベンピアノソナタ第8番「悲愴」第二楽章でした。前編ではマーラー交響曲第5番第四楽章を使い、「のだめでマーラーか」と思わず感心しましたが、今回はちょっと安易でした。誰でも考えつく曲ですからね。しかし、映画は十分楽しめました。



2010年4月26日月曜日

季節性検索ワード 

この時期になると検索ワード(どのワードにて我がブログに訪問したか)に特徴的な2つの現象が見られる。1つは、当然「バラ」関係の言葉。この季節ならではです。そしてもう一つは「神社」。後者は、皆さん、GWで何処へ行こうかとネットであれこれ探しているからだろう。おもしろい。



2010年4月25日日曜日

金鑚神社(かなさな)

今日は、東京へ戻って初めてのゴルフ(コンペ)で埼玉の本庄児玉まで足を運んだ。4時半起きの5時出発。2時間かけての小旅行だ。20分以内に10以上もゴルフ場があった宮崎が懐かしい。その上早出にもかかわらず6時頃の関越自動車道はすでに渋滞。恐ろしいや関東。さてゴルフだが、1ヶ月ぶりにクラブを握ったので、さすがにスコアは散々。やはり練習せねば。帰宅前に、近くに旧武蔵の国二宮であった「金鑚神社」があると調べていたので参拝しに。
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旧官幣中社にして名神大社そして式内社と由緒ある神社(もとは金佐奈神社)である。御祭神は、天照大神、素盞嗚尊です。日本武尊が配祀されています。社伝によると、景行天皇の四十一年、日本武尊東征の帰途、東国鎮護のために、伊勢神宮の伯母である倭姫命から草薙剣に副えて、賜った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀らしい。「金鑽」の社名は、社伝にあるように、火打石(火鑽金)が御魂代であることから起ったとする他に、金鑽=金砂と見る説がある。すると社名からして金山彦尊がご祭神だったのではと思う。近くには、蛭川という地名もあり出雲系の匂いがしてならない。
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特徴は、なんといっても「拝殿」のみで「本殿」がないこと。参拝者はご神体である神奈備「御嶽山」を祝詞屋を通じて拝する。「本殿」を持たない旧官幣・国幣社は、奈良の大神神社・長野の諏訪大社とこの「金鑽神社」のみ。非常に静かで清々しい空気の神社であった。
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参道には、重要文化財である「多宝塔」がある。ご神紋は「樫の葉」らしいが、みつけることができなかった。残念。




2010年4月18日日曜日

根津神社

根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社である。ご祭神は「素戔嗚尊」。美しい鳥居と楼門をもつ。
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そして、社殿は拝殿の奥に幣殿・本殿と一宇に続く、総漆塗りの華麗な権現造り。
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しかし目を引くのは、なんといっても「神紋」だ。↓そう「卍紋」というかわった神紋なのである。
根津権現の名残りを顕す卍の紋がいたるところに配されているのだ。
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おもしろい。



2010年4月12日月曜日

玉前神社

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玉前神社を参拝。上総一之宮にして旧国幣中社だ。ご祭神は玉依姫命。鎌倉以降、武家の崇拝は厚く、頼朝も政子の安産祈願をしたと伝えられる。残念ながら拝殿・本殿は改修のため見ることができなかった。
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ご神体は珠玉といわれているだけに、神輿の腹には、見事な宝珠の紋が付けられていた。ちなみに、神紋は「三つ巴」みたいだ。実は、もう一つ「鏡に御統みすまる」という紋があるはずなのだが、拝殿・本殿は見えず確認できなかった。残念。神輿には、大宮・若宮とあるが、一説によると、大宮が「玉前大神」で若宮が「玉依姫命」らしい。
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さて「玉前神社」といえば、春分・秋分の日のご来光の道で有名だ。この日、太陽の運行線が上総一ノ宮の玉前神社から島根の出雲大社を結ぶ。相模国の寒川神社、富士山、日蓮宗の聖地七面山、伊吹山、琵琶湖竹生島の弁財天、大江山の皇大神社、大山神社と名だたる聖地が並ぶのだ。北緯35度22~24のレイライン。これこそが、日本古代の隠された大いなる御技なのでは。おもしろい。
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花見

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関東地方は、久しぶりの天気なので「お花見」へかみさんと出かけた。まずは、小見川城山公園。そして九十九里浜を経由して上総一ノ宮「玉前神社」へ参拝し、茂原公園と2か所のお花見。昼食は、九十九里の魚専門店で「いわし料理」と「焼き蛤」を堪能。久々のドライブを楽しんだ。
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上2枚(小見川城山公園)下(茂原公園)
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2010年4月9日金曜日

大仏殿炎上

Photo井ノ部康之著「大仏殿炎上」を読む。斎藤道三、北条早雲と並び、戦国三大梟雄の一人として世に知られる松永久秀を描く。
梟雄とは、狡猾で残忍な武将を指し、久秀は主家簒奪、将軍足利
義輝暗殺、東大寺大仏殿焼き討ちの三つの悪行を為したことで、その名を轟かせた。二回り年下の織田信長をして「まったく油断ならない男だ」と言わしめた
男。最期は日本初の爆死による自害という史実も梟雄らしさを後押しした。が、はたして久秀は本当に残虐で悪事の限りを尽くす武将だったのか?貧困の家に生まれ、僧侶に拾われそこから一代の城持ちまでにのし上がる「松永久秀」の臥身嘗胆の日々と人並みすぐれた戦略眼をまるで、作者が久秀を弁明するかのように語る。
さて、東大寺大仏殿焼き討ちであるが、本書は戦いのさ中での筒井方の仕業として見ている。たしかに、『大和軍記』には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されていたり、『足利李世紀』には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を
張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されている事から、「松永方が放火して焼けたのではなく、罪があるとしても、過失
により、大火を招いたものだろうと思われる。ましてや久秀が指示して大仏殿を焼いたということはあり得ない。『筒井順慶の生涯』によると「大仏殿は久秀が意図的に焼いたものではなく、戦のさなかに三好方で起きた不慮の事故によって焼けてしまった」としていたり、『戦国三好一族』によると「大仏炎上は久
秀の仕業とされているが、実際は三好方の失火であった。信長に二回も謀反した悪らつぶりが、後世の付会を呼んで、すべての久秀の罪業に押付けられたのであ
る」としたりする。これより直ちに「松永久秀の放火説」が無かったとは言えないが、最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力のようだ。



2010年4月5日月曜日

東京大神宮

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飯田橋のそばにある「東京大神宮」を参拝。明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建されたそうです。「東京のお伊勢さま」と称されている。御祭神は、もちろん天照皇大神、豊受大神。それほど広くない境内だが、近年の縁結びの御利益からか、若い女性がたくさん参拝していた。神前の結婚式を初めて行った神社としても有名。もとは、日比谷の大隈重信邸にあったそうだ。それにしても見事な千木・鰹木だ。
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ご神紋は「十六菊に花菱」のようです。
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