2013年12月28日土曜日

ばしじゅん会

年末ということで、名門 中山カントリーのメンバーとなった「バジジュン先輩」の肝いりで、浦安の「健鮨」さんで、会社の同僚での忘年会をやりました。大先輩のT中さんやO船さんもいらっしゃり、楽しい4時間となりました。



Photoメンバーは、現在に前橋にいる{す-さん}、A山先輩と後輩のM瀬君との7名でした。昔話、現在の近況など語り合い、大いに飲んでしまいました。


「ばしじゅん」先輩の持ち込みの日本酒「飛露喜」、美味しかったです。会津のお酒ですが・・・・。


会津といえば途中、八重の桜の話になり、お酒のせいか、少し熱くなりすぎました。申し訳ありません。


二次会は、「ばしじゅん」先輩 恒例のカラオケスナック。ばしじゅん先輩行きつけの店。今年で店じまいということで、花束を贈っていました。このへんは、さすがです。一人2曲、ばしじゅん先輩5曲のペースで歌わさせていただきました。相変わらずのばしじゅん先輩の大音量、久しぶりのすーさんのムード歌謡、全くしらふのA山先輩の宴会歌謡、なんとなく軽いM君のイエモン、ジュリー。聴かせていただきました。


今年最後の飲み会、楽しいひと時でした。ありがとうございました。




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さて会津について、ひと言だけ。


幕末の会津については、一部の間違った(歪曲した)認識の小説家(星なにがし、早乙女なにがし、宮崎なにがし、司馬なにがし)の影響で捻じ曲げられてこんにちに至っていることが多いようです。会津を独善的に正義の被害者と位置づけ、薩長土肥を何の証拠もないのに悪の加害者だと位置づけることによる恨み文化は、どこかの2か国の反日政策にそっくりです。


未だに長州憎しというのが、そもそも間違ってることの第一位です。会津を討伐したのは、鹿児島・高知を主力に(板垣隊・伊地知隊)、新政府に恭順した東北の地域の部隊ですから。
また、会津戦争時の会津兵の死体は、見せしめに埋葬されなかったことが、未だに恨みを残しているというのですが、会津兵埋葬禁止は、すでに会津若松市役所も嘘であると認めております。{会津若松史 第7巻}会津士族の手記が発見され、新政府に金銭を貰い死体を埋葬したと記されていました。そもそも残ってる史料には、両軍のどの死体にも触るなというものであり、会津兵の死体を放置せよなどとは記されていませんでした。会津戦死者の埋葬が遅れた理由としては、会津藩の降伏直後からはじまったヤーヤー一揆という騒動と、降雪です。結局、遺体を埋葬したくとも降雪でガチガチに固まった地面を掘る事は不可能であり、翌年の雪解けの季節まで、事実上埋葬が不可能だったのです。それをあたかも・・・全くの捏造です。 仮に、そうだとしても軍隊はすでに北へ向かい、明治民生局の人間が後始末をしているのです。(明治民生局は薩長土抜きの諸藩の人々からなる職員で構成されています)


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それから捏造といえば、会津藩の贋金づくりの史実が語られることがありません。会津藩の通常の経済支出は、約11万両でした。そこに京都守護職就任への臨時の支出が22万両。これは耐えられない。西郷頼母の必死の反対はそこからきています。そもそも、1749年、寛延2年、凶作により困窮の極限に追いつめられた農民たちの大規模な一揆が起き、藩の収入は激減していました。その後も天災・凶作は頻発した。さらに、大火災により江戸の藩邸が焼失したり、会津若松の武士住宅が焼失するなどの不慮の災害に見舞われた。加えるに、幕府命令による他国の大河川改修や沿岸警備等があり、次から次へと、大規模な臨時支出が続いていました。会津藩は、借金に次ぐ、借金で、なんとか生きていたのです。(というか、何の経済振興策もとらずに)財政面における会津藩の異常な巨額支出は、会津藩に天文学的な金額の借金を負わせ、領民に対する過酷な徴税・苛斂誅求になったのです。そして何と200万両もの贋金つくりに手を染めるのです。その張本人が、八重の桜で「いい役どころ」にしてもらった「山川大蔵」です。


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「山川大蔵」といえば、転封先に新政府から、隣の「猪苗代藩」と「斗南藩」を提示され、「斗南」を選択した人物でもあります。(これも、一方的に新政府が極寒の地へ流したと喧伝されていますが)会津藩は、幕末の夷敵からの沿岸警備として文化5年(1808)には唐太(樺太)、利尻、宗谷などに5000名を106日間派遣している。また、安政6年(1859)には網走沿岸を除く西別から沢木までの90余里の警護派遣も実施している(京都守護職に就任した時に撤退)経験があるので、寒冷地への移封はこれほどの困難を予測しなかったこと、明治2年に斗南藩に移封の際、北海道の南部四郡をも下さる話があり、これは明治3年に実施されていて、蝦夷地のプラスがあるならば、石高の小さい猪苗代より斗南の方が、安政の蝦夷地警護の経験も蝦夷地開拓に活かせると考えたこと。などですが、何より、猪苗代城代は上士の大組物頭級の者が勤めていましたので、城士は本城である会津若松城士より一段格下とされていました。猪苗代移封はいわば殿様から家老に格下げされることを、この期に及んで単に嫌ったのです。また、隣の猪苗代だと、圧政を続けた会津領民からの攻撃を受ける、また領民が全く従わないことを恐れたのです。


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さて蝦夷地警護といえば、会津藩は1859年に北方警備のために、幕府から蝦夷(北海道)の一部(根室・紋別)を譲渡されていた。会津戦争前に、列強の協力を取り付けんと、プロイセン(ドイツ)に蝦夷地の売却まで申し出ています。(これも、あまり語られませんが)当時の蝦夷地(北海道)は、米がとれないということで、進退窮まった会津藩にとっては、無用の長物。庄内藩(山形)とともに、その管轄地をプロイセン(ドイツ)へと勝手に売り渡そうとしたのです。ビスマルクが、ロシア・フランスを気にして却下したからよかったもののです。 でなければ売国奴となるところでした。


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最後に一言。会津戦争では薩長が蛮行を働いたといわれてますが、一次史料にはどこにも書かれていないようです。会津系作家や会津贔屓でアンチ薩長の作家の著作物だけに書かれています。逆に会津の蛮行は、北関東・東北・北越・道南の一次史料にいくつも掲載されていますし、外国人の報告書にも会津兵による蛮行が記されています。


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会津の蛮行史料


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会津藩の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達にこれまで通り代官所による統治の据え置きを望み、代官に会津藩による支配に反対する建白書を出す事になる。「会津藩は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って、会津口を固めるため撤兵するとのことだ。その上、預地となれば調達金や夫役を課せられ、私どもの村々は立ち行かなくなるだろ」、以上がその建白の内容だが、いざ北越戦争が始まると越後の領民が危惧した通り、越後の民衆は会津藩兵の蛮行に苦しめられること事になるのである。
(十日町市史通史編3)


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京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、近視眼的に進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
 旧幕領を接収した会津藩兵がまず行ったのは、戦費調達の為に各村々への御用金の名の元での搾取だった。この会津藩の御用金の割当は旧幕領の各地に及び、旧水原代官領での千唐仁村十八両、浮村一五七両、野田新田十八両を始め、前述の小千谷陣屋領での割り当てや、後述する新潟町での御用金の取りたて等、枚挙にいとまがない。
��水原町編年史第一巻)


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またこのような組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる。
(新潟市史通紙編3)


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「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候。」
金銭や食糧の徴発以外にも、小千谷等の戦場が近い村々では、農兵の取立てが行われた。半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず、農兵の食料までもが村々から取り立てられ、村々は二重の負担に苦しむ事になる。
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)


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会津藩兵による草莽の志士への襲撃も行われた。殆どの草莽の志士は会津藩の進駐を聞き、身の危険を感じて故郷から脱出した。しかし旧水原代官領に住む草莽の志士三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が進駐して来ても留まっていたが、三月に会津藩兵の襲撃を受けて殺害されてしまう。
��水原町編年史第一巻)


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越後の民衆に対する蛮行は会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく、会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍によっても搾取や略奪は行われた。「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の脱走兵五七〇人余が相次いで新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら、各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。幕府の倒壊によって支配機能停止の状態に陥った新潟奉行所はこうした行動を停止出来なかったから、民衆の恐怖と憎悪は高まった」を始めとして、新政府よりの新発田藩や与板藩の城下に乗り込み、軍資金を強要する等の蛮行を行った。尚、この衝鋒隊や水戸脱走軍の乱暴・略奪について「越後での略奪は会津藩士ではなく衝鋒隊が行った」との会津贔屓の主張があるが、衝鋒隊にしろ水戸脱走軍にしろ会津藩の指揮を仰ぎ、補給を受けており(もっとも殆ど現地調達だが)、会津藩士によって書かれた「会津戊辰戦史」に衝鋒隊も水戸脱走軍も会津藩兵の一部と記述されているのだから、会津藩兵と同一視するのが妥当だろう。何より衝鋒隊に略奪された越後の民衆が会津によって略奪されたと記録しているのだから、衝鋒隊と会津藩は無関係と主張する会津贔屓の主張は詭弁と言わざるを得ない。

会津藩の搾取略奪に苦しんでいた越後の民衆もまた、かつての越後の支配者である米沢藩兵を慕った。「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。米沢様は別段のものだと衆人が感服した。それにひき比べ、会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ。」
��新津市史通史編下巻)


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越後の民衆が会津藩を嫌い、米沢藩を慕った一例として、会津藩によって徴募された出雲崎代官領の農兵隊が、会津藩の支配を嫌って米沢藩の家来になる事を懇願して許された事が挙げられる。この農兵隊は後に米沢藩から精義隊と命名され、米沢藩の指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に新政府軍と戦う事になる
(新潟市史通史編3)

 


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田中が新潟町に帰還した時、新潟は既に会津藩の占領下にあり、その蛮行略奪により「市中之もの共殊之外動揺いたし、最寄最寄江家財取片付、惑乱一トならす」と言う無政府状態になっていた。
��新潟市史 資料編5)


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米沢藩参謀甘粕継成の日記に、六月頃から会津藩の批判が目立つようになる「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て味方する者なし。是を以て大面在陣以来、村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども、家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民自ら火を家々にかけて我が軍を追出し、賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出、早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば遖れ御大事なるへしと云う」。これは六月一日の記述だが、「略奪を行なう会津藩兵と一緒に行動するのなら、もはや米沢様には協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を訪れて訴えたのを受けて、今は民衆に慕われている米沢藩だが、会津と行動を共にするのを続ければ、民衆の信頼を失いかねないので会津とは別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の任にある甘粕が考えていたのが判る。
��甘糟備後継成遺文)


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庄内藩兵を率いる石原多門から次のように語られている「当地へ出張以来会の将佐藤折之進等表裏の所業甚しく危険の場へは必我庄兵を差向け、己は後へ廻りて分捕等を掠むる工夫を事とし一向義を重んじ信を守るの志なき故、我士卒いづれも不平を抱き元より越地出兵は会を援くる為なるに、会人の作業如斯にては何ぞ尽力する栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく数十日空く日を送れるなりと云」。甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より、「会津を助ける為に越後に出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は激戦地に庄内藩兵を送り、自分達(会津藩兵)は安全な後方で民衆からの略奪に狂奔しているので、庄内藩兵の士気が下がっている」と不満を述べられている。
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって、越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
(甘糟備後継成遺文)


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「会津・長岡両藩、越地人民ノ心を取失候上」や「会兵と御離れ、仕事を別申て、御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位をいつく迄も御示被遊、御仁恤を御下し被為在候様無之候ては、危急此事ト奉存候」
(米沢藩戊辰文書)


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新潟奉行所の役人から米沢藩に送られたと思われる書状にも、会津藩との別離を勧めるように書かれている。
��幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿)

米沢藩総督である千坂高雅が国許に送った書状にも次のようなものがある「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ、其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)


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会津と庄内がこのままでは新政府軍に滅ぼされるから助けて欲しいと言うのなら大軍を差し出しもするけれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを前線に送り、正規軍は三百程しか前線に出兵させないようなら話にならないと、米沢藩兵の総督である千坂自身が、会津藩兵に反感を抱いていると書かれた書状を送る時点で、会津藩と米沢藩の確執は限界に達していたと思われる。
総勢千名余とされる越後戦線の会津藩兵だったが、実際に中越戦線の最前線で戦っていたのは佐川官兵衛の朱雀士中四番隊、土屋総蔵の朱雀寄合二番隊、木本愼吾の青龍士中三番隊と言った一部の兵だけで、越後に出兵した会津藩兵の大半は、戦場から遠い後方で民衆から搾取略奪を行い、これにより民衆の心は同盟軍から離れていったと言うのが実情だろう。
そして大半の会津藩兵が後方で搾取略奪に狂奔している間に、前線では折角奪回した長岡城と、重要な武器補給港である新潟港の双方を新政府軍に奪取された事により、米沢藩兵も長岡藩兵も力尽き、越後における同盟軍の戦線は崩壊してしまったのである。


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まだあります。




慶応4年
��月28日駒屋 守屋などで放火


5月10日中山村放火


5月10日中山村 竹ノ内村に放火


5月31日八幡村 富岡村に放火駒野村を襲撃


6月1日下守屋の民間を襲撃 金品強奪


10月7日亀ケ城に放火


< 会津戦争詳細年表より


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「若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた
��会津の人民がいっせいに『世直し』一揆に蜂起した。
��10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで
��2か月近く、全領内で、しかも、まだ、政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。
��政府軍は、この2か月におよぶ『世直し』一揆の波を、手をこまねいて見ていた。  家永三郎編『日本の歴史4』より


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会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。

慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
(松楓楼松屋の歴史 )


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駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書


・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様 に聞かれた


・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した


・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を 乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した


・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ


・会津藩降伏後、会津の領民は護送される会津藩主一行を 冷ややかな態度で見送った。


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「一か月にわたる包囲攻撃は、会津藩軍を窮地に追いやったにちがいない。
城には防弾設備のある建物はなかった。防御となるものを求めて城に逃げ込み、
砲撃を受けて負傷した老人や婦女子を、私は、実際に見た。その包囲攻撃を
受けた者のなかの日本婦人の勇敢な精力的な働きについては、数々の物語が
伝えられている。彼女たちは黒髪を切り落とし、食事の炊き出しや、負傷者の
看護に忙しく立ち働き、幾夜となく鉄砲を肩にして歩哨の苦労を分担した。
両軍の戦闘が熾烈を極めたにもかかわらず、ミカドの軍隊は、捕虜をかなり
寛大に取扱ったようだ。
これに対して、会津藩の軍隊は、ミカドの軍隊の兵士たちばかりか、
捕えた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、4日間も
雪の中に倒れていて、両足の機能を失った一人の人夫に会ったことを
私はここに記しておきたい。
その人夫は、もし会津藩の兵士に捕まっていたならば、酷い死に目に
遭わされていただろう、と私に語った。
そのほか、私は、会津若松で、世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられた。
彼らは、両手を背中にうしろ手に縛られ、腹を深く切り裂かれていた。
私は会津藩の軍隊の兵士たちの、残酷行為の物語をいろいろと耳にした。
長岡では、彼らは、ミカドの軍隊の病院にいる負傷者や医師たちを皆殺しにした、
と聞いた。
会津藩の軍隊の兵士たちは、退却して行く途中で女たちを強姦した。
家々に盗みに入り、反抗する者は、みな、殺害した。」

などなどです。


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小説というものは悪意をもって書かれると酷いことになりますね。売れるためには、会津の正義を訴えるという歪曲がどうしても必要なのでしょう。また、そればかりを何十年も書いて生活の糧にしている人もいます。どうなんでしょうかねえ。。。。。


だいたい、会津士族の子孫が現在の会津にどれだけいるのでしょうか。会津士族は、会津から出ていったわけですから。ほとんどが会津士族の圧政に苦しんでいた領民の子孫ですよね。それを、100年や200年くらいで恨みは消えない土地柄だなんていうのはおかしいです。これは、それをネタに生活してる人間の罪ではないでしょうか。そう思います。


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やあ、ひと言のつもりが随分と長くなってしまいましたネ。申し訳ありません。


2013年12月24日火曜日

年末の恒例 - 第九

今日は、錦糸町にある「すみだトリフォニーホール」にて新日フィルによる「第九」の演奏会に出かけました。



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こちらのホールは音響では評判も良いホールです。早めにでかけ、錦糸町でイタリアンのランチを戴き、会場へ。合唱団は、栗山文昭氏率いる「栗友会合唱団」でした。男声合唱は結構うまい。ソプラノもう少し頑張って欲しかったですね。
席は、S席ですが14列目で、オーケストラより少し低い位置で若干難ありでした。音響は、無駄に多すぎる残響がなくて良かったと思います。

演奏は・・・まあ「第九」ですから。頑張ったで賞。

しかし、いつも演奏会に行くと思うんですが「そんなに咳でますかぁ」です。残念です。


2013年12月22日日曜日

iPhone 5S

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本日より iPhone 5S GOLDに機種変更しました。iOS 7にしてから 4Sでの電池の減り具合が異常に早く、さすがに辟易。少し軽く小さくなった感じです。



2013年12月14日土曜日

蜩ノ記

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葉室麟 著「蜩ノ記」を読む。
[E:book]豊後羽根藩の檀野庄三郎は不始末を犯し、家老により、切腹と引き替えに向山村に幽閉中の元郡奉行戸田秋谷の元へ遣わされる。秋谷は七年前、前藩主の側室との密通の廉で家譜編纂と十年後の切腹を命じられていた。
編纂補助と監視、密通事件の真相探求が課された庄三郎。だが、秋谷の清廉さに触れるうち、無実を信じるように
なり……。凛烈たる覚悟と矜持を描く感涙の時代小説!



なんといっても、区切りある生を意識することの大切さ、出会いを通じて他人へ影響を与えることの意味を考えさせられる作品でした。

2013年12月9日月曜日

ターナー展

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今日は、朝一で上野 東京都美術館で開催されている「ターナー展」に鑑賞に出かけました。細部にわたるスケッチ力の凄さと、光と大気の息吹を堪能しました。


お気に入りは、なんといっても「レグルス」でした。


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その他にも、素晴らしい作品を観ることができました。




帰りには、上野公園内で、かみさんの故郷伊賀市が「伊賀上野展」をやっていましたので、寄ってみました。


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忍者人気、爆発するといいですね。




2013年12月8日日曜日

今年の打ち納め

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今年の打ち納めは「茨城のザ・インペリアルカントリー倶楽部」でした。会社の同僚3名と、楽しいゲームをしながらでのプレーを楽しみました。なんといっても快晴、寒いとの予想を裏切り絶好のゴルフ日和でした。スコアは、前半好調で42。今年最後は80台を確信しておりましたが、後半は、ゲームに気を取られ48と撃沈。終わってみれば、得意の90。修行が足りません。来年の初打ちは、1月3日の「中山ゴルフ倶楽部」からとなります。また、来年頑張りましょう。


2013年12月1日日曜日

食洗器

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食洗器、古くなったので買い替えました。PANASONICで、山本覚馬 もとい(西島秀俊)がCMしているエコナビシリーズです。来週の金曜日に取り付けです。





さて今日は、朝から先週購入したスチームクリーナーでキッチンの掃除です。古い食洗器の下、システムキッチンの扉、壁紙、冷蔵庫の手垢などなど、落ちる落ちる・・・・。