2005年8月7日日曜日

介子推

Img224 介子推(かいしすい)は、後の晋の文公「重耳」に仕えて、彼が諸国をさまよって飢えに苦しんでいた時にひそかに食糧を確保したり、刺客の凶刃から守ったりした人物です。重耳は19年という長い亡命生活を終えて晋へ帰国を果たして君主の座に着きます。そこで、これまで彼に従って来た臣下達に論功行賞を行いますが、帰国する直前に重耳とその重臣である咎犯(きゅはん)のやりとりを目撃するのです。咎犯は重耳に対して自分たちの手柄を誇るようなことを言い、重耳もそれを認めて絶大な報酬を与えることを約束します。介子推は重耳を助けたのは咎犯など重臣達だけではなく、重耳に付き従って苦労を共にしてきた者達すべてであると考えています。また、重耳は天によって守られてきたのであり、君主になるのも天の考えだと思っています。ですから個人が手柄を誇るのは間違っており、それを認めた重耳に失望してしまうのです。そして、重耳は自分の君主ではないと考え、母と共に山へ姿を消してしまいます。やがて、介子推の隠れた働きを知った重耳(文公)は、彼を大夫として賞し再び自分の配下になってくれるように彼を探します。しかし、介子推は、二度と山から姿を現すことはありませんでした。文公はどうしても介子推に会いたく、山に火をつけた。逃げ道を 1本だけ確保しその出口で待てば、そこから出てきた介子推に会えると。だが、それでも介子推は山を下りなかった。焼山からは母をしっかりと抱きしめた介子推の亡骸が見つかったという。文公はこれを恥じ、綿上山を介山と、改めかの地を介子推の地として立入禁止とした。そして、人々は介子推の死を悼み清明節の前日には火を使わず冷たい食事のみをとった(寒食節)と言う。寒食の日に火を用いない理由というのが中国全土で介子推を悼んでいるからなのだそうです。宮城谷氏の小説の中に、次のような場面がある。介推が重耳の住居に火を放った刺客を退けたのち、従者の慈英と話しているところです。



「わたしは籍沙さんが好きだ」
 介推は少し声を高くした。
「わたしもですよ」
 慈英はつぶやくようにいった。
「あの人の心は、くもりがない。そんな人がどうして重公子の暗殺に手を貸すのか」
「わかりませんが、わたしには籍沙さんが犯人におもえます」
「慈英よ。人を疑うと、ふたつのつらさをいだくことになる。その人が犯人でなかった場合、自分がみじめになる。また、その人が犯人であった場合、さらにみじめになる。それなら、人を疑わず、騙されつづけていたほうがよい。騙されるのは愚かであろうが、騙す不幸よりまさる。そうおもわぬか」
 慈英はいちど深く首をたれてから、急に首をあげた。
「推さまのような人を仁人というのです」
「ずいぶんもちあげたな」
「どれほどもちあげてもよいのです。事実、そうなのですから」
「ふふ」
 くすぐったそうに介推は笑った。



私は、こうした清廉潔白さを尊敬したい。



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