吾 今 國の爲に死す,
死して 君親に 背(そむ)かず。
悠悠たり 天地の事,
鑑照 明神に 在り。
私は、今、国のために命を捧げようとしている。死んでも決して君主と親とに忠考を尽くすことに背きはしない。遥かにかぎりない天地間のことは、すべて神様が照らし見ているので、今更自分の心事をかれこれいうことはない。
松蔭先生、刑死直前に大声して読みし、五言絶句である。
松陰先生のこのような心境に至って死につくことの「すごみ」を思わずにはいられない。
吾 今 國の爲に死す,
死して 君親に 背(そむ)かず。
悠悠たり 天地の事,
鑑照 明神に 在り。
私は、今、国のために命を捧げようとしている。死んでも決して君主と親とに忠考を尽くすことに背きはしない。遥かにかぎりない天地間のことは、すべて神様が照らし見ているので、今更自分の心事をかれこれいうことはない。
松蔭先生、刑死直前に大声して読みし、五言絶句である。
松陰先生のこのような心境に至って死につくことの「すごみ」を思わずにはいられない。
第三弾は、「弦楽四重奏曲第14番「春」ト長調K387」である。14番から19番は、ハイドンセットと呼ばれている。モーツァルト はハイドンの「ロシア・セット」に啓発され、6曲の弦楽四重奏曲(第14番~第19番)を作曲した。その1曲目がこの「春」で、第15番ニ短調 (K421)、第17番「狩」(K458)、第19番「不協和音」(K465)と、名曲ぞろいで、彼の弦楽四重奏曲全作品の中で頂点をなしている。この6曲に、まる2年間をかけているが、筆の速い彼としては、異例の時間のかけようである。そこには尊敬するハイドンに捧げるために、全力を尽くす姿が見えてく る。さて、モーツァルトといえば、耳障りの良い肩のこらない曲ばかりが流布され、それがモーツァルトだと思われている。しかしモーツァルトがそうした肩のこらない曲ばかりしか作らなかったとしたら彼の名は現在のように音楽史に燦然と輝く存在とはならなかったである。4つの楽章からなるこの曲は、溌剌とした明るい第1楽章から始まり、第2楽章のメヌエット(ハイドン風に)、第3楽章のアンダンテ・カンタービレと続く。しかしなんといってもこの曲のすごいところは第4楽章モルト・アレグロである。簡単に言うと、5分足らずの中に技巧の粋が詰め込まれている。半音階の多用(モーツァルト・クロマティシズム)、そしてフーガとソナタ形式の統合(前人未到のホモフォニーとポリフォニーの統合)は、かの「ジュピター」に先立ちこの曲で見事に完成されていたのである。フーガによるポリフォニックな構成で始まり、第17小節後半より突然古典派特有のホモフォニックな和声が響いてくる。そしてまた第31小節より今度はまたポリフォニックな構成となる。ここは、バロック時代に確立された係留音が伴う。第39小節よりまた今度はホモフォニックな新たな楽句があらわれ、第50小節まで続く。天才モーツァルトを印象付ける一曲である。ブラボー アマデウス!!
それではMolto Allegro.mp3 (クリック)をお聴きください。
第ニ弾は、「弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K516」である。この曲の出だし(画像クリック)を知らないで「モーツァルトが好き」といってる人は真っ赤な偽者である。モーツァルトとト短調という調性は切っても切り離せない「宿命の調性」といわれている。交響曲25番、40番。クラヴィーア四重奏曲。そしてこの曲。「疾走する悲しみ」と言われたこの曲を聴かずして決してモーツァルトは語れない。心をえぐる という言葉がぴったりくるかもしれない。小林秀雄が有名にした冒頭の第一主題の半音階は、一種独特の情緒を持つ。第二主題は、休止符が絶妙で声の出ない嗚咽のようでもある。第ニ楽章のメヌエットは、あまりに悲しいのだ。下降音階と鋭い和音が悲愴感を込みあがらせる。もし後に続くトリオでのヴァイオリンが明るく振舞ってくれなければ、何処までも落ち込んでしまうだろう。つかのまの安息だ。そしてこの曲の最終楽章(第4楽章)は、悲しいト短調(アダージョ)の調べから突如 ト長調(アレグロ)へ移行する。しかし手放しで明るいものではなく、どこかそこはかとない寂しさの痕跡をなおも引きずっている。「慰めなき長調」と呼ばれるこの音を聴いて初めて天才モーツァルトを知るであろう。ブラボー アマデウス!!
それでは、第一楽章allegro(クリック)をお聴きください。
先日、すーさん先輩と久しぶりに飲む機会があった。すーさんも大の読書家だ。私のように凝り性ではないので、いろんな書籍を読む。前述の「大聖堂」もとっくに読んでいた。そんな、すーさんの好きな本が「背教者 ユリアヌス」 辻邦生 著である。 本棚をさぐって久しぶりにぱらぱらとめくってみる。小説冒頭「かの人を我に語れ、ムーサよ」で始まるこの小説は、「なんという地上の美しさであろう」というユリアヌスの最後の言葉で終わる。背教者という蔑称でキリスト教徒から呼ばれているために、あまり知られていない皇帝だ。在位も非常に短い。当然、ほとんどの日本人は、この辻邦生の小説でその存在を知る。しかし彼がもっと長く生きていたら今のキリスト教世界は大きく変わっていたかもしれない。そしてこの当時の宮廷政治は今の腐った官僚政治にも通じ、非常に見苦しいものだ。その為ユリアヌスの純粋な情熱だけが余計輝いてみえる。皇帝になってからも、学塾での学友たちとの親交が続き、庶民の心をもったまま傲慢にならずに、学んだ哲学の理想を現実に実現しようと労苦した皇帝ユリアヌスの姿は、何らかの蛮行を治世の間に行ってきた従来のローマ皇帝のイメージを一変させる。だから読んでいていつのまにかユリアヌスを一生懸命応援してしまうのだ。この本を読んだのは、20代の頃だと思うが、キリスト教徒のことを、同じように「ガラリヤ人がぁ」と呼んでいたのを思い出す。(すぐに感化される)まるで大河ドラマのような小説である。上中下と長い本が、私もお勧めである。
芸術の秋を迎えて「モーツァルト」を語りたい。第一弾は、「ピアノ協奏曲第17番ト長調K453」である。モーツァルトの中で一番好きな曲は、Hpにも書いたが「ピアノ協奏曲第23番」である。でも最近この17番が何故かお気に入りである。優雅な形式の中で虹のような色調の変化に身をゆだねてゆくうちに、「やさしさ」が、いつしか心いっばいにしみ渡ってくる。木管楽器を効果的に使い弦と管、オーケストラとピアノの掛け合いが洗練された色彩豊かな響きを生み出している。第1楽章は、ロンド風の踊り跳ねまわるような第1主題に始まり、転調を何度も何度も繰り返す。音という個々の素材が、様々に組み合わされていくとき、一つのメロディーとなる。展開部はまさにその真骨頂で、素材は単なる分散和音に過ぎない。それがこのような世界を作り上げるのだからすごい。第2楽章は、なんと美しいのであろうと思う。荘重なテーマに始まり、長調と短調との間をさまよいながら、抑えきれなくなった感情が徐々に溢れ出してくる。変則的なロンド形式だが、幻想曲と呼ぶのが最も良い気がする。短調に転調したところなどは、ショパンでも聴いているかのようだ。 第3楽章は楽しく軽快に、そしてまたさわやかに流れていく。モーツァルトが飼っていたムクドリがこの楽章の第1主題を歌うことができたというエピソードはよく知られているが、確かに小鳥が歌うにふさわしい旋律ではないだろうか。私たちも社会の喧騒から離れて、鳥のさえずりに耳を傾ける時のように、心を澄ましてモーツァルトの音楽に耳を傾ければ、生命の中にもともとあったものが響きを始めるのであろう。 ブラボー アマデウス!!それでは、聴いて下さい。mozart_17_k.453(クリック)
ケン・フォレンット著 「大聖堂 上中下」を読んだ。中世ヨーロッパものを読むのは久しぶりかもしれない。以前、塩野七生が好きで、「コンスタンチノープルの陥落」から始まる三部作や、「海の都の物語」 「神の代理人」「わが友マキャベリ」など立て続けに読んでいた時期があった。ケン・フォレンットはスパイ小説家なので見落としていた。3巻2000ページにも及ぶ物語は圧巻であった。プロローグからフィナーレまでおよそ半世紀にまたがり物語は進行して行くのだが、全く飽きさせることなくその中に引き込んでくれたのには驚きだ。登場人物はそれぞれに個性があり、人間の弱さ・悪・良心など様々な面を演じてくれる。権謀術数や欲望、愛憎そして夢・こだわり・強い意志すべてが繰り返し繰り返し流れる。幸福は悲劇への序章であり、また悲劇は、幸福への道しるべとなる。題名となっている大聖堂の建設の描写もきめ細かく、さすがだ。久しぶりに読み応えがあり良い作品に出会えた気がする。