鈴木英治著「義元謀殺」を読む。[E:book]今川義元の尾張への侵攻を半年後に控えたころ、家中の有力な家臣が、家族もろとも惨殺された。御馬廻りの多賀宗十郎には、ある心当たりがあった。謀反の疑いをかけられた山口一族を処刑した実行者がねらわれているのではないかと・・・・・・。しかし、そこには織田信長の恐るべき陰謀が隠されていたのだ!!ミステリータッチで描く時代もの。一気に読み終えた。満足ゆく作品です。ネタばらしが出来ないので内容は書きません。
2010年9月23日木曜日
2010年9月21日火曜日
南宮大社
昨晩は、久しぶりにおいしい伊賀牛のヒレステーキを食べ満足。早速、四日市が渋滞になるまえに名古屋へ向かう。かみさんと娘は、今回の目的の一つ(これが一番か?)、名古屋劇団四季の「オペラ座の怪人」に。私は、この時間を利用してまずは、美濃一之宮「南宮大社」へ。関ヶ原は南宮山の鬼門北東麓に鎮座している。
ご祭神は「金山彦命」。鉱山・金山など、鉱物をつかさどると神いわれている。『延喜式』には「仲山金山彦神社」と記載されている。まずは、楼門が迎えてくれる。
楼門をくぐると舞殿。その背後に拝殿。
ご神紋は「三つ巴」。本殿は、「南宮造り」といわれる「権現造り」のようだ。珍しく千木・鰹木がないのが特徴。
南宮とは?そもそも製鉄炉や鍛冶場の四方を取り囲む押立柱(おしたてはし)のうち、南方の柱を特に重要視していたためといわれ「南方の宮」=「ミナカタノミコト」で、諏訪大社が南宮といわれる所以だ。
ご祭神は「金山彦命」。鉱山・金山など、鉱物をつかさどると神いわれている。『延喜式』には「仲山金山彦神社」と記載されている。まずは、楼門が迎えてくれる。
楼門をくぐると舞殿。その背後に拝殿。
ご神紋は「三つ巴」。本殿は、「南宮造り」といわれる「権現造り」のようだ。珍しく千木・鰹木がないのが特徴。
南宮とは?そもそも製鉄炉や鍛冶場の四方を取り囲む押立柱(おしたてはし)のうち、南方の柱を特に重要視していたためといわれ「南方の宮」=「ミナカタノミコト」で、諏訪大社が南宮といわれる所以だ。
多度大社
2010年9月20日月曜日
富士山本宮浅間大社
お彼岸に加え、暫く入院していたおじいちゃんが退院したので、かみさんの実家 伊賀へかみさんと娘と車で帰省した。朝5:40の出発。厚木付近で少しの渋滞はあったものの順調な走行。せっかくのドライブなのでこの機会を捉え、一之宮巡り。8:00に駿河一之宮「富士山本宮浅間大社」に到着。
残念ながら、鳥居左後方に見えるはずの富士山はこの日は隠れていた。ご祭神は「木花之佐久夜毘賣命」。浅間神社の主祭神はすべて「木花之佐久夜毘賣命」である。ご神体はもちろん富士山で、山頂に奥宮がある。主祭神としてもう一神「浅間大神(あさまのおおかみ)とあるが、富士山の神霊である。
鳥居を抜け、参道を歩くと楼門が見える。ご神紋は「棕櫚の葉」。神霊の憑代で、富士大宮司の紋である。
本殿は、その名をうつす「浅間造り」。
正面五間側面四間寄棟造の社殿(宝殿造り)の上に、三間社流造の本殿が建つ、二重の楼閣構造となっている。
千木・鰹木は「男神」を顕す数と形となっている。浅間大神を主に意識しているのだろうか?
富士山のお膝元らしく、湧き水がある「湧玉池」が印象的であった。
残念ながら、鳥居左後方に見えるはずの富士山はこの日は隠れていた。ご祭神は「木花之佐久夜毘賣命」。浅間神社の主祭神はすべて「木花之佐久夜毘賣命」である。ご神体はもちろん富士山で、山頂に奥宮がある。主祭神としてもう一神「浅間大神(あさまのおおかみ)とあるが、富士山の神霊である。
鳥居を抜け、参道を歩くと楼門が見える。ご神紋は「棕櫚の葉」。神霊の憑代で、富士大宮司の紋である。
本殿は、その名をうつす「浅間造り」。
正面五間側面四間寄棟造の社殿(宝殿造り)の上に、三間社流造の本殿が建つ、二重の楼閣構造となっている。
千木・鰹木は「男神」を顕す数と形となっている。浅間大神を主に意識しているのだろうか?
富士山のお膝元らしく、湧き水がある「湧玉池」が印象的であった。
椿大神社
東京から、伊賀まで名だたる神社がいくつもあるのだが途中下車は料金が嵩むうえ、かみさんと娘のブーイングもあり、神社巡りは2社に限定された。もう一社選んだのは、伊勢一之宮「椿大神社 つばきおおかみやしろ」。鈴鹿市に鎮座する。
ご祭神は「猿田彦命」。猿田彦大本宮とも呼ばれている。(全国、猿田彦神社の総本宮)背後に聳える入道ヶ嶽を神体として鎮座している。
灯篭を備えた趣のある参道を抜けると本殿が見える。
ご神紋は「三つ巴」のようだ。当社は、本殿右手に、朱色の美しい別宮・椿岸神社をもつ。ご祭神は猿田彦命の妻神である「天之宇受女命」。
故松下幸之助は、この清浄なる宮を好まれ、何度も参拝されていたらしい。境内には「松下幸之助社」もあるとのこと。
ご祭神は「猿田彦命」。猿田彦大本宮とも呼ばれている。(全国、猿田彦神社の総本宮)背後に聳える入道ヶ嶽を神体として鎮座している。
灯篭を備えた趣のある参道を抜けると本殿が見える。
ご神紋は「三つ巴」のようだ。当社は、本殿右手に、朱色の美しい別宮・椿岸神社をもつ。ご祭神は猿田彦命の妻神である「天之宇受女命」。
故松下幸之助は、この清浄なる宮を好まれ、何度も参拝されていたらしい。境内には「松下幸之助社」もあるとのこと。
2010年9月19日日曜日
心のスポーツ
2010年9月18日土曜日
雷神の筒
2010年9月11日土曜日
意富比神社(船橋大神宮)
今日は、朝一で床屋へゆき、その足で延喜式式内社「意富比おおひ神社」を参拝。またの名を「船橋大神宮」。ご祭神は天照坐皇大御神。日本武尊東征のとき、葛飾郡湊郷(今の船橋)で戦い劣勢になったとき海上で光るものがあり、舟の中に安置した神鏡の前で矢を放ち勝利した、その神鏡を湊郷に祀ったとある。
社名となっている「意富比」の由来については、大火あるいは大炊の意で食物神とする説。大日の意で、お天道様(太陽神)とする説、夕日を真正面に受ける高台にあることなどから夕日とみる説などの説がある。私は、日本最古の皇別氏族である多氏(意富氏)が関係しているのではないかと踏んでいる。上総・鹿島神宮のある常陸は意富氏が治めていたといわれているし。千葉氏は、この多氏の末裔だ。さて御朱印をもらう時にご神紋を尋ねると「不明」とのこと。そんなことがあるのだろうか。八陵鏡紋ににているのだが、中が円で少し違う。いずれにしても神鏡をかたどったものであることには間違いないだろう(下のご朱印に神紋があります)
しかし、朱印をもらう時に、その他色々尋ねたが、ここの方々は正直何も知らない。まったく・・・・
沙門空海唐の国にて鬼と宴す1~4
2010年9月5日日曜日
遥かなる大和
八木荘司著「遥かなる大和 上・下」を読む。[E:book]改革を推進する聖徳太子の期待を背負い、遣隋使に加わった留学生・高向玄理と南淵請安は、隋都で大使・小野妹子から思いがけない任務を命じられる。大臣・蘇我馬子の強い意向で随行していた通事(通訳)・鞍作福利が、隋帝の国書を持って失踪したのだ。高句麗侵略の準備に騒然とする隋で、福利の行方を追うことになった二人が見たのは、帝国の疲弊した現実だった…。
大和での、蘇我馬子と聖徳太子の外交路線の対立を軸として、陰湿な政治の舞台裏を描いて見せる。また中国大陸では、煬帝の対高句麗戦争に端を発し、楊玄感(ようげんかん)の反乱、李密(りみつ)の華北制圧、李淵(りえん)親子の挙兵、唐王朝の成立を描く。(隋唐演義のように) 小説としては、臨場感があり優れた作品であった。しかし、その内容は、ちょっと受け入れがたいもので歴史としては見るべきでない作品であろう。小生、そもそも蘇我馬子と聖徳太子の外交路線の対立などないと思っているし、聖徳太子自身も存在していないと思っているからだ。八木氏の「古代からの伝言」を記紀の勉強のために読んだが、八木氏は記紀にそって忠実に物語を構築していくなかでフィクションをデフォルメしているのだ。残念ながら我が「大和」の古代の真実は「書(文字)」が無いためにわからないことが多すぎる。
大和での、蘇我馬子と聖徳太子の外交路線の対立を軸として、陰湿な政治の舞台裏を描いて見せる。また中国大陸では、煬帝の対高句麗戦争に端を発し、楊玄感(ようげんかん)の反乱、李密(りみつ)の華北制圧、李淵(りえん)親子の挙兵、唐王朝の成立を描く。(隋唐演義のように) 小説としては、臨場感があり優れた作品であった。しかし、その内容は、ちょっと受け入れがたいもので歴史としては見るべきでない作品であろう。小生、そもそも蘇我馬子と聖徳太子の外交路線の対立などないと思っているし、聖徳太子自身も存在していないと思っているからだ。八木氏の「古代からの伝言」を記紀の勉強のために読んだが、八木氏は記紀にそって忠実に物語を構築していくなかでフィクションをデフォルメしているのだ。残念ながら我が「大和」の古代の真実は「書(文字)」が無いためにわからないことが多すぎる。
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