2011年3月26日土曜日
密謀
藤沢周平著「密謀 上・下」を読む。藤沢氏にしては珍しい歴史上の人物を描いた作品なので手にとった。題材は戦国時代末期の上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝と、その参謀として辣腕をふるった直江兼続の物語である。兼続の慧眼と彼が擁する草(忍びの者)の暗躍を軸に戦国の世の盛衰を活写したところも見逃せない。しかし、小説としては正直いまひとつであった。残念。
2011年3月21日月曜日
忍びの国
2011年3月13日日曜日
悪夢の地震
昨日、会社の1階にて地震に遭遇。あと1分早く戻っていたらエレベーターにのっていた。その後、事務所のある7階まで階段で。急いで家族に電話。会社の緊急電話(アナログ電話)を使う。長女は自宅にいた。怯えていたがまずは安心。ママは30分後に連絡ができ今、家に戻っているという。次男は津田沼駅に無事にいることがわかる。長男は東京に出ていたのだが、22時ごろまで連絡ができず心配するが、やっと新宿で無事にいることがわかり、これでとにかく全員の安否がわかり、ほっと胸をなでおろす。
結局、朝5時半まで会社に。半蔵門線、都営新宿線、京成線と乗りついで7時半に帰宅。長男は、夜12時に本八幡まで地下鉄に乗り、そこから検見川まで歩いて帰ってきたらしい。さすがワンゲル部。
それにしても、この悲惨な事態はまさに悪夢だ。
被災者の方に心から激励を送ると共に、お亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。被災者のために、なにか自分で一つでもできることをしたい。
結局、朝5時半まで会社に。半蔵門線、都営新宿線、京成線と乗りついで7時半に帰宅。長男は、夜12時に本八幡まで地下鉄に乗り、そこから検見川まで歩いて帰ってきたらしい。さすがワンゲル部。
それにしても、この悲惨な事態はまさに悪夢だ。
被災者の方に心から激励を送ると共に、お亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。被災者のために、なにか自分で一つでもできることをしたい。
2011年3月11日金曜日
東京大空襲の日
今日は、あの東京大空襲の日である。 1945年 3/9未明から3/10にかけ米軍は、B29の低空飛行による焼夷弾攻撃を実施した。「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾が投弾された。その閃光は、攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。当初の投下予定地域ではなかった荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が一層拡大した。これは、早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では、火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
この作戦を実施したのが、カーチス・E・ルメイという少将だ。「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」だ。彼はのちに「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた。」と語っている。
実は日本は、昭和39年こんなヤツに、航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績により、政府より勲一等旭日大綬章を授与している。バカか!ふざけるな!!だ。さすがに天皇が直接渡すことは無かったらしいが、こんなことをやっている国だ。
日本は矜持を、戦争に負けた時に失くしていたのかもしれない。寂しい限りだ。
この作戦を実施したのが、カーチス・E・ルメイという少将だ。「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」だ。彼はのちに「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた。」と語っている。
実は日本は、昭和39年こんなヤツに、航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績により、政府より勲一等旭日大綬章を授与している。バカか!ふざけるな!!だ。さすがに天皇が直接渡すことは無かったらしいが、こんなことをやっている国だ。
日本は矜持を、戦争に負けた時に失くしていたのかもしれない。寂しい限りだ。
2011年3月6日日曜日
小御門神社
千葉の小御門神社に参拝。全国に後醍醐天皇の建武中興に尽くした、南朝側の皇族、武将などを主祭神とする神社が15社あり、建武中興十五社と呼ばれている。後醍醐天皇を祀る吉野神宮は官幣大社。親王を祀る鎌倉宮・金崎宮・井伊谷宮・八代宮は官幣中社。その他の忠臣達を祀る、別格官幣社となっている。ここ小御門神社は、藤原師賢公を祀る別格官幣社である。鎌倉幕府の北条高時が後醍醐天皇を配流しようとしたときには、天皇の身代わりとして御輿に乗り比叡山に入って北条方の目をくらまし、後醍醐天皇が笠置に遷幸するための時間稼ぎを行っている。その後、師賢も笠置に移ったが捕らえられて出家した。1332年には下総国守護千葉貞胤に預けられ、同年その地で没した。そのため、この地に祀られている。
社殿はすべて透塀に囲まれている。
神紋は「双葉菊花」紋。
拝殿と本殿は少し離れて建てられているようです。静かな森の中の境内でした。社務所が建て替え中で、誰もおらず残念ながらご朱印はもらえませんでした。
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