日清戦争時に、大山巌率いる第二軍がわずか半日で落した「旅順」は、ロシアの手により全く違う強力な要塞と化していた。そのことへの見識を欠いた日本軍が旅順の悲劇を引き起こしたものである。乃木第三軍は、155日を費やし6万の死傷者を出し、旅順を攻略した。しかし、さかのぼることクリミア戦争時、セパストポリス要塞は1年間も持ちこたえており、その4倍の規模を誇る旅順要塞を5カ月で攻略した事実。第一次世界大戦時、ベルダン要塞は200日で独仏軍あわせて70万の死傷者を出している事実。これらを鑑みるに、果たして第三軍の攻略は稚拙。乃木は無能と一言で片づけてよいものだろうか。いやありえない。
さて、そもそも第三軍の使命は、旅順要塞を包囲しその動きを止め、クロパトキンの根拠地「遼陽」を攻略する第一軍、二軍が後ろから攻撃されないようするためであった。一か月で乃木第三軍は、見事に旅順攻囲線を確保した。しかし、旅順港閉塞に失敗を繰り返す海軍より、大本営に旅順要塞を占領し、港内のロシア艦隊を殲滅してもらいたいとの要請があり(実は港内の艦隊はすでに使い物にはならなかったのだが)、急遽、強襲法による要塞攻撃が命令されたのである。此処に悲劇は始まる。第三軍が装備していたのは、野砲百八門、山砲七十二門、攻城砲百八十八門で、いずれも口径十サンチ~十五サンチの小さな火砲であった。彼らは、東北正面を突破することを戦略とした。わずかな弾丸しか割り当ての無い第三軍は肉弾での強襲をとらざるえない。三十六門を持つ連隊の一日の弾丸の数がわずか5発。ベトンで固められた金城鉄壁の要塞をこれで攻略できるわけがない。それを司馬遼太郎は、指揮官の無能と叫ぶのだ。これは悪意と言わず何というのか教えてほしいものだ。ここには教えられるものが多くある。またの機会に再びこの件については筆をとりたい。
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