青梅街道沿いにある。都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは「遅野井八幡宮」とも呼ばれていたようだ。創建は、平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになったとのこと。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられている。
一の鳥居を潜り南へ歩き、突き当りを右(西)へゆくと、美しい朱の楼門が待つ。
境内を更に進んで今度は北へ向きを変える。
境内には、頼朝公が奥州征伐の際に立ち寄り戦勝祈願し、報賽として2本の松を植えたと伝えられています。現在の松は2代目で、以前の松は1本は明治初年に、もう1本は昭和48年に枯れてしまいました。衝立として回廊内に保管されているそうです。
神門をさらに潜り、拝殿へ。
本殿一体の権現造です。
神紋は八幡宮らしく「三つ巴」紋でした。
青梅街道に面する東の大鳥居は高さ9Mもある立派な明神鳥居でした。