2006年12月2日土曜日

すっかり冬~札幌イルミネーション

S_i_1 約2ヶ月ぶりに札幌へ出張に出かけました。気温は、-3~3度とすっかり寒く、雪も積もるほど、町は、イルミネーションがほどこされ白い雪にさえ幻想的な雰囲気。やっぱり、夏も冬も北海道はいいです。



2006年11月29日水曜日

墨攻

19334817 昨日、通勤の往復で、「墨攻:酒見賢一著」という本を読んだ。来年初、この本を題材に漫画化されたものが映画化される。この本は、中島敦記念賞を受賞している。中島敦は、かの「山月記」の作者だ。正直非常に短い本で、あっというまに読み終えた。墨とは入れ墨のことらしい。すなわち墨子は入れ墨の人という感じだ。宋の生まれといわれている。そういえば孔子も宋の生まれだ。ちなみに宋の国は、周が滅ぼした殷の一族の国である。墨子は、元々は大工だとも言われている。それが後の守城の武器造りに活かされる。墨子は孔子同様に学団をつくります。これを墨家集団といいます。墨家は二代目鉅子(指導者)禽滑釐の時に思想統一がなされました。この本は、それより後の話となります。さて非攻墨守という言葉がある。墨守とは、{墨子がよく城を守り通し、楚軍を退けたという故事から}昔からのしきたりや自説を固く守ることを言う。秦の始皇帝以降、2000年という中国の長い歴史から跡形も無く消された「墨家集団」の逸話としては面白いが、墨子の根本である兼愛思想からすれば、城を守る規律のために、人を罰し斬首する光景は少し違和感を覚えた。まあ如何なる映画となるのか楽しみである。映像にすると緊迫感のあるものになるかも知れない。



ちなみに



墨子 第十七:非攻上



今ここに1人の男がいて、他人の果樹園に忍び込み、桃や李を盗んだとしましょう。民衆がそれを知ったならば、それを悪だと非難するでしょうし、統治者がその男を逮捕したなら、処罰するでしょう。それはどうしてでしょうか。他人に損害を与えて自己の利益を得たからです。他人の犬や鶏や豚を盗む者は、桃や李を盗む者よりも、その不義は一層甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、さらに大きいからです。他人の馬や牛を奪い取る者は、犬や鶏や豚を盗む者よりも、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。およそ他者に損害を及ぼす程度が多くなるにつれ、その行為が不仁である度合もますます増大し、その罪もいよいよ重くなるのです。何の罪もない人間を殺害して、着ていた衣服を剥ぎ取り、所持していた戈や剣を奪い去る者に至っては、馬や牛を奪い取る者より、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。ところが今、大規模な不義を働いて、他国を攻撃するに至っては、だれもその行為を非難することを知りません。攻伐を称賛し、その行為を正義の戦いなどと評価しています。1人の人間を殺害すれば、社会はその行為を不義と判定し、必ず死刑に処します。こうした殺人罪に関しては天下の君子たちの誰もがこれを非難すべきことと認識し、これを不正義だと判断しています。ところが今、大掛かりな不義を働いて他国を侵略するに至っては、一向に非難すべきことを知りません。侵略を褒め称えては、義戦などと美化しています。つまり彼らは、実際に侵略戦争が不義であることを認識していないのです。今ここに人がいるとしましょう。その人間が少量の黒色を見たとき黒だといい、多量の黒色を見たときには白だと言えば、人々はその人間を白と黒の識別すらつかぬ者だと判定するでしょう。あるいは、苦いものを少し嘗めては苦いといい、苦いものを大量に嘗めては甘かったなどといえば、だれもがこの人間を甘い苦いの弁別さえできぬ者だと判定するでしょう。今の君子たちは、小規模な悪事は犯罪だと認識して非難しておきながら、大規模な悪事を働いて他国に侵攻すれば、それを褒め上げ、これぞ正義だと吹聴しています。これでは、はたして正義と不義との区別を知覚しているなどと言い張れるでしょうか。



墨子 第十四:兼愛上



混乱の原因を考えてみると、それは相互に愛し合わないことから発生しています。臣下や息子が君主や父親に孝でないのが、混乱のひとつです。また父親が息子を慈まず、君主が臣下を慈しまないという場合も、混乱のひとつです。
世間で盗賊を働く者も、我が家だけを愛して、他人の家を愛そうとしないから、他人の家から盗んで、それを我が家に利益をもたらそうとします。賊人も我が身だけを愛して他人を愛さないので、他人から奪って我が身に利益をもたらそうとします。大夫が互いに相手の家を混乱させ、諸侯が互いに相手の国を攻撃するのも、これと同様です。
世界中のあらゆる種類の混乱は、いずれも互いに愛し合わないことが原因です。

もし世界中の人々に自己と他者とを区別せずに愛し、他人を愛することまるで我が身を愛するかのようにしたなら、それでもなお孝でない者がいるであろうか。そうなれば国家と国家は互いに攻伐せず、家門と家門は互いにかき乱さず、盗賊もいなくなり、君主と臣下や父と子の間も、すべて孝慈の関係で結ばれるであろう。このようであれば、間違いなく世界中が安定します。



とあります。



「兼愛」はキリスト教の「慈愛」であり、この非攻は、世界平和に通じるが、墨子を生んだ中国とキリスト教を信仰する人々の国が世界で一番殺戮を犯しているのは皮肉としか言いようが無い。





2006年11月26日日曜日

十字架上のキリストの最後の7つの言葉

Uccg1193emersonsq久しぶりにCDを購入。ハイドン作曲 弦楽四重奏曲版 「十字架上のキリストの最後の言葉」~エマーソン弦楽四重奏団 である。輸入版を買ったので、1000円程安かった。はじめ司祭による言葉と管弦楽という編成で作曲されたこの作品は、後に作曲者自身によって弦楽四重奏曲用に編曲され、これが人気を呼び、さらには独唱、合唱、管弦楽による大規模なオラトリオ版も作曲された。スペインのカディス大聖堂の依頼により作曲されたもので、聖金曜日に、福音書の七つの言葉を読み瞑想する時間に演奏されるための音楽となっている。調性は、ニ短調。





  • 序曲


  • 第1ソナタ 「父よ!彼らの罪を赦したまえ」 Largo


  • 第2ソナタ 「おまえは今日、私と共に楽園にいる」 Grave e cantabile


  • 第3ソナタ 「女性よ、これがあなたの息子です」 Grave


  • 第4ソナタ 「わが神よ!何故私を見捨てたのですか?」 Largo 


  • 第5ソナタ 「渇く!」 Adagio


  • 第6ソナタ 「果たされた!」 Lento


  • 第7ソナタ 「父よ!あなたの手に私の霊を委ねます」 Largo


  • 地震 Presto e con tutta la forza


ほとんどが緩徐楽章からなるこの異色作の演奏には、静謐なテンションの持続、響きの純正さ、デリケートなニュアンスといった要素が求められる。





演奏のエマーソン弦楽四重奏団は、アメリカが建国200年を祝った記念すべき年である1976年に、フィリップ・セッツァーとユージン・ドラッガーというジュリアード音楽院に学ぶふたりのヴァイオリニストが、同窓生の他ふたりと一緒に結成した弦楽四重奏団である。
エマーソン弦楽四重奏団というこの演奏団体の名称は、アメリカの偉大な哲学者であるラルフ・ウォールド・エマーソンの名前に由来するものである。エマーソン弦楽四重奏団の結成後すぐにときめきと頭角を現し、2年後の1978年にはナハトマジーク室内楽賞を受賞した。そして、1980年にワシントンD.Cスミソニアン・インスティテートのイジデント・クワルテットになった彼らは、その2年後にはニューヨークのリンカーン・センター室内楽協会の第1レジデント・クワルテットにも迎えられ、それ以後は、ハートフォード大学のハート音楽学校で教授活動と演奏活動を行うレジデントになり、1983年にはアスペン音楽祭のレジデント・クワルテットとしても活動するようになった。1985年に初めてヨーロッパに演奏旅行を行なってセンセーショナルな成功を収めた彼らは、間もなく現代を代表する弦楽四重奏団のひとつとして数えられるようになったが、高度な演奏技術とシャープなモダンな感覚を兼備」した彼らはそれによって伝統と矛盾することのない新鮮でみずみずしい演奏様式を打ち出している。(グラモフォン:コメントより)



管弦楽版は持っていたので、とにかく「弦」が聴きたくて。聖堂で聴くには、管弦楽版のほうがいいかもしれないが、弦の引き締まった音は、第一音から背筋に電気が走るのだ。十字架のキリストを瞑想するには、弦楽四重奏曲があっているかもしれない。素人には、音楽性はわからないが、序曲と終曲{地震}以外、7つの言葉に合わせソナタが並ぶという異色さは、ハイドンならではかもしれない。



それでは、序曲introduzione_i__maestoso_ed_adagio(クリック)をお楽しみください。 コメントもお寄せください。





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2006年11月10日金曜日

亀裂 ERC HOT

2006_11090006 これが、亀裂の入った ERC HOTのフェイスだ。原因不明である。いつも芯ばかりで打ってるからだろうか??? (いや そんなことはない)14回で1・2度あればいいはずなのだが・・・・



2006年11月5日日曜日

芸術の秋 - モーツァルトを語る 第5弾

Mozart21 やはりこのところ、モーツァルト生誕250年でTV番組がよく組まれている。昨日も日本テレビで天才の謎をテーマに2時間番組が。ミーハーの私はつい見てしまう有様。そういえば、月9の「のだめカンタービレ」も娘の影響で見ているこの頃である。2台のピアノのためのソナタ 二長調 K.448が、早速出てきたのには驚かされた。なにせモーツァルトは、<2台のため>は1曲しか作曲していないのだから。



さて第五弾は、「大ミサ曲ハ短調K.427」である。



これは、残念ながら未完の曲である。「クレド」は、途中のエト・インカルナトゥスは一部未完であり、クルチフィクスは書かれていない。「アニュス・デイ」は完全に欠落している。現在は、未完部分を補ったアロイス・シュミット版かロビンス・ランドン校版、最新のレヴァイン版が用いられる。この曲は、誰からの依頼でもなく自分のために作曲されたものらしいが、初演でのソプラノは妻 コンスタンチェがつとめている。「キリエ」のソプラノの独唱にまず圧倒されてしまう。あわれみたまえ とはこういう音なのかと信じさせるにたるメロディーである。その音の先にキリストの十字架が臨める。(カトリック教徒でもないのに)不思議だ。グロリアの最終節の壮大なフーガは見事で、まるでオペラのラストのような輝きを放つ。クレドは、やっぱり エト・インカルナトゥス・エストのフルートとソプラノの美しい掛け合いだろう。神の恩寵はこうしてもたらされると言われれば、納得するかもしれない。ちなみに私のCDは、ウィーンフィル:レヴァイン指揮 ソプラノは、キャサリン・バトルである。ブラボー アマデウス!!



それではkyrie_eleison(クリック)をお楽しみください。







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ERCⅢ

270891_3 ドライバー買ってしまいました。Callaway ERCⅢ です。先週のコンペで突然、ERC HOT (使用 1年2ヶ月)のフェイスの中心が割れてしまい思い切って買い換えました。実は、欲しいなと思っていたので、背中を押してくれて感じです。グリップが細めなため、それでなくてもかぶりやすい癖があるので、二木ゴルフですぐに太めにしてもらいました。HOTのようなキーンという馬鹿でかい金属音もなく、すーっと飛んでゆく感じです。やはりここ一番のあたりはHOTの方が断然飛ぶようですが、Ⅲは、安心感があります。弾道もそれほど吹き上がる感じがしない、ランも出そうで、これからの季節はいいかもしれません。ちょっと早い自分の誕生日プレゼントとなりました。



2006年11月3日金曜日

芸術の秋 - モーツァルトを語る 第4弾

Mozart_1756 第四弾は、「ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466」である。モーツァルトには、短調のピアノ協奏曲が2曲しかない。20番と24番だ。どちらも名曲である。この曲は、低音域で蠢く悲劇的な音で始まる。悲しみを奏でるピアノは圧巻。弦楽器のシンコペーションは重苦しく、哀願するピアノはカデンツァまで一瞬の緩みもなく続く。心を突き刺すようなファルテシモは、暗闇に出会った死神への驚きのようで恐怖がつきまとう。つづく第二楽章は、ロマンスと呼ばれている。変ロ長調による陽だまりのような甘美なメロディーで始まるが、突如として中間部のト短調では、嵐のような激情につつまれる。また、変ロ長調に戻り安らぎを迎える。第三楽章は、明るいリズムでハッピーエンドのようなエンディングを迎える。何故、この時代(宮廷音楽花盛り)にこのような曲が書けるのか?天才としか言い表せない。さて1984年アカデミー賞作品賞、主演男優賞、監督賞、脚色賞、美術賞、衣裳デザイン賞、メイクアップ賞、音響賞の8部門の受賞に輝いた「アマデウス」に、この第一楽章と第二楽章が使われている。第一楽章は、サリエリが、父レオポルドに扮するためにマスクを買い、モーツァルトに鎮魂ミサ曲を依頼する場面で使われ、第二楽章は、ラストのサリエリが車椅子で去ってゆくエンディング、エンドロールに使われている。とにかくブラボー、アマデウス!!





それでは、第二楽章k_466_2 (クリック)をお楽しみください。



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2006年10月27日金曜日

松蔭先生 命日

Shoin吾今爲國死,
死不背君親。
悠悠天地事,
鑑照在明神。











吾 今  國の爲に死す,
死して 君親に 背
(そむ)かず。
悠悠たり  天地の事,
鑑照  明神に 在り。



私は、今、国のために命を捧げようとしている。死んでも決して君主と親とに忠考を尽くすことに背きはしない。遥かにかぎりない天地間のことは、すべて神様が照らし見ているので、今更自分の心事をかれこれいうことはない。
松蔭先生、刑死直前に大声して読みし、五言絶句である。



松陰先生のこのような心境に至って死につくことの「すごみ」を思わずにはいられない。



2006年10月23日月曜日

芸術の秋 - モーツァルトを語る 第3弾

0004430 第三弾は、「弦楽四重奏曲第14番「春」ト長調K387」である。14番から19番は、ハイドンセットと呼ばれている。モーツァルト はハイドンの「ロシア・セット」に啓発され、6曲の弦楽四重奏曲(第14番~第19番)を作曲した。その1曲目がこの「春」で、第15番ニ短調 (K421)、第17番「狩」(K458)、第19番「不協和音」(K465)と、名曲ぞろいで、彼の弦楽四重奏曲全作品の中で頂点をなしている。この6曲に、まる2年間をかけているが、筆の速い彼としては、異例の時間のかけようである。そこには尊敬するハイドンに捧げるために、全力を尽くす姿が見えてく る。さて、モーツァルトといえば、耳障りの良い肩のこらない曲ばかりが流布され、それがモーツァルトだと思われている。しかしモーツァルトがそうした肩のこらない曲ばかりしか作らなかったとしたら彼の名は現在のように音楽史に燦然と輝く存在とはならなかったである。4つの楽章からなるこの曲は、溌剌とした明るい第1楽章から始まり、第2楽章のメヌエット(ハイドン風に)、第3楽章のアンダンテ・カンタービレと続く。しかしなんといってもこの曲のすごいところは第4楽章モルト・アレグロである。簡単に言うと、5分足らずの中に技巧の粋が詰め込まれている。半音階の多用(モーツァルト・クロマティシズム)、そしてフーガとソナタ形式の統合(前人未到のホモフォニーとポリフォニーの統合)は、かの「ジュピター」に先立ちこの曲で見事に完成されていたのである。フーガによるポリフォニックな構成で始まり、第17小節後半より突然古典派特有のホモフォニックな和声が響いてくる。そしてまた第31小節より今度はまたポリフォニックな構成となる。ここは、バロック時代に確立された係留音が伴う。第39小節よりまた今度はホモフォニックな新たな楽句があらわれ、第50小節まで続く。天才モーツァルトを印象付ける一曲である。ブラボー アマデウス!!



それではMolto Allegro.mp3 (クリック)をお聴きください。



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2006年10月20日金曜日

芸術の秋 - モーツァルトを語る 第2弾

K516 第ニ弾は、「弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K516」である。この曲の出だし(画像クリック)を知らないで「モーツァルトが好き」といってる人は真っ赤な偽者である。モーツァルトとト短調という調性は切っても切り離せない「宿命の調性」といわれている。交響曲25番、40番。クラヴィーア四重奏曲。そしてこの曲。「疾走する悲しみ」と言われたこの曲を聴かずして決してモーツァルトは語れない。心をえぐる という言葉がぴったりくるかもしれない。小林秀雄が有名にした冒頭の第一主題の半音階は、一種独特の情緒を持つ。第二主題は、休止符が絶妙で声の出ない嗚咽のようでもある。第ニ楽章のメヌエットは、あまりに悲しいのだ。下降音階と鋭い和音が悲愴感を込みあがらせる。もし後に続くトリオでのヴァイオリンが明るく振舞ってくれなければ、何処までも落ち込んでしまうだろう。つかのまの安息だ。そしてこの曲の最終楽章(第4楽章)は、悲しいト短調(アダージョ)の調べから突如 ト長調(アレグロ)へ移行する。しかし手放しで明るいものではなく、どこかそこはかとない寂しさの痕跡をなおも引きずっている。「慰めなき長調」と呼ばれるこの音を聴いて初めて天才モーツァルトを知るであろう。ブラボー アマデウス!!



それでは、第一楽章allegro(クリック)をお聴きください。





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2006年10月19日木曜日

背教者 ユリアヌス

先日、すーさん先輩と久しぶりに飲む機会があった。すーさんも大の読書家だ。私のように凝り性ではないので、いろんな書籍を読む。前述の「大聖堂」もとっくに読んでいた。そんな、すーさんの好きな本が「背教者 ユリアヌス」 辻邦生 著である。 本棚をさぐって久しぶりにぱらぱらとめくってみる。小説冒頭「かの人を我に語れ、ムーサよ」で始まるこの小説は、「なんという地上の美しさであろう」というユリアヌスの最後の言葉で終わる。背教者という蔑称でキリスト教徒から呼ばれているために、あまり知られていない皇帝だ。在位も非常に短い。当然、ほとんどの日本人は、この辻邦生の小説でその存在を知る。しかし彼がもっと長く生きていたら今のキリスト教世界は大きく変わっていたかもしれない。そしてこの当時の宮廷政治は今の腐った官僚政治にも通じ、非常に見苦しいものだ。その為ユリアヌスの純粋な情熱だけが余計輝いてみえる。皇帝になってからも、学塾での学友たちとの親交が続き、庶民の心をもったまま傲慢にならずに、学んだ哲学の理想を現実に実現しようと労苦した皇帝ユリアヌスの姿は、何らかの蛮行を治世の間に行ってきた従来のローマ皇帝のイメージを一変させる。だから読んでいていつのまにかユリアヌスを一生懸命応援してしまうのだ。この本を読んだのは、20代の頃だと思うが、キリスト教徒のことを、同じように「ガラリヤ人がぁ」と呼んでいたのを思い出す。(すぐに感化される)まるで大河ドラマのような小説である。上中下と長い本が、私もお勧めである。



2006年10月8日日曜日

芸術の秋 - モーツァルトを語る 第1弾

芸術の秋を迎えて「モーツァルト」を語りたい。第一弾は、「ピアノ協奏曲第17番ト長調K453」である。モーツァルトの中で一番好きな曲は、Hpにも書いたが「ピアノ協奏曲第23番」である。でも最近この17番が何故かお気に入りである。優雅な形式の中で虹のような色調の変化に身をゆだねてゆくうちに、「やさしさ」が、いつしか心いっばいにしみ渡ってくる。木管楽器を効果的に使い弦と管、オーケストラとピアノの掛け合いが洗練された色彩豊かな響きを生み出している。第1楽章は、ロンド風の踊り跳ねまわるような第1主題に始まり、転調を何度も何度も繰り返す。音という個々の素材が、様々に組み合わされていくとき、一つのメロディーとなる。展開部はまさにその真骨頂で、素材は単なる分散和音に過ぎない。それがこのような世界を作り上げるのだからすごい。第2楽章は、なんと美しいのであろうと思う。荘重なテーマに始まり、長調と短調との間をさまよいながら、抑えきれなくなった感情が徐々に溢れ出してくる。変則的なロンド形式だが、幻想曲と呼ぶのが最も良い気がする。短調に転調したところなどは、ショパンでも聴いているかのようだ。 第3楽章は楽しく軽快に、そしてまたさわやかに流れていく。モーツァルトが飼っていたムクドリがこの楽章の第1主題を歌うことができたというエピソードはよく知られているが、確かに小鳥が歌うにふさわしい旋律ではないだろうか。私たちも社会の喧騒から離れて、鳥のさえずりに耳を傾ける時のように、心を澄ましてモーツァルトの音楽に耳を傾ければ、生命の中にもともとあったものが響きを始めるのであろう。 ブラボー アマデウス!!それでは、聴いて下さい。mozart_17_k.453(クリック) Mozart20



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2006年10月4日水曜日

大聖堂

Photo_14 ケン・フォレンット著 「大聖堂 上中下」を読んだ。中世ヨーロッパものを読むのは久しぶりかもしれない。以前、塩野七生が好きで、「コンスタンチノープルの陥落」から始まる三部作や、「海の都の物語」  「神の代理人」「わが友マキャベリ」など立て続けに読んでいた時期があった。ケン・フォレンットはスパイ小説家なので見落としていた。3巻2000ページにも及ぶ物語は圧巻であった。プロローグからフィナーレまでおよそ半世紀にまたがり物語は進行して行くのだが、全く飽きさせることなくその中に引き込んでくれたのには驚きだ。登場人物はそれぞれに個性があり、人間の弱さ・悪・良心など様々な面を演じてくれる。権謀術数や欲望、愛憎そして夢・こだわり・強い意志すべてが繰り返し繰り返し流れる。幸福は悲劇への序章であり、また悲劇は、幸福への道しるべとなる。題名となっている大聖堂の建設の描写もきめ細かく、さすがだ。久しぶりに読み応えがあり良い作品に出会えた気がする。





2006年10月2日月曜日

ノースショアカントリー倶楽部

Title 今週は、ノースショアカントリー倶楽部に挑戦。距離がレギュラーから6573ヤードと長くラフも素人にはキツい比較的タフなコースである。今日は、出だしからスティディーなゴルフを心がけハイスコアペースであったが、落とし穴はいつも存在する。難しい上がり3ホールで我慢しきれず、大崩れ。OUT=42、IN=47の89というスコアとなった。ドライバーが相変わらずなので、ラフに苦しんだが、アプローチとパターはまあまあであった。水戸時代の師匠であるM君はパターを忘れてレンタル。おかげで90と精彩を欠く結果に。2度目の勝利となった。終盤少し雨が降ってきたが、秋のオンシーズンらしい1日であった。



2006年9月21日木曜日

安倍晋三

安倍晋三君が、臨時国会が召集される26日の衆参両院本会議で、第90代、57人目の首相に指名され、同日中に新内閣を発足させる見通しだ。山口県出身でなんと8人目の総理大臣である。東京都出身が同じ8人であるが、他の県に比べると圧倒的である。さすが長州藩である。あの鹿児島県ですらたった3人で、岩手県の4人よりも少ない。過去の7人は伊藤博文、山形有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作である。昭和40年代、まだ小学生だったころ故郷 山口県は、周りの県に比べて妙に道路がきれいだったなと記憶している。新幹線の駅もなにもない県の割には5つもある。さすが、宰相の県は違うなと思っていた。だからどうということはないのだが、お国自慢ではある。



2006年9月17日日曜日

立野クラッシックゴルフ倶楽部

13_2 雨が暫く続き天候が心配されたが、絶好のゴルフ日和にめぐまれ、またしても晴れ男ぶりを発揮した。今回は、千葉の姉ケ崎にある「立野クラッシック・ゴルフ倶楽部」でプレー。インターからも近く、自宅からわずか40分。まさしく接待ゴルフ場で、フラットな美しい所であった。歩きもそれほど気にならなかった。ティーショットは最悪でスコアは平凡な93というありさまでした。久しぶり回ったI氏は、絶好調で87。このところ100を切れない日々を過ごしていたので、やんやの喝采をしておいた。しかし1年ぶりの敗戦を喫したはやはり悔しい。それにしても楽しい仲間とのゴルフは格別である。





2006年9月11日月曜日

キャプマーカー

日本女子プロ選手権 見事に凱旋の宮里藍が優勝を飾った。すごい精神力だ。(兄は案の定崩れたが)そんな藍ちゃんは、新しいキャップマーカーをしていた。写真右側がそれです。パットが苦手な人は宝物になるかも。そして左が私の現在のキャップマーカーだ。台は、今週、まさに女子プロ選手権の舞台となったニドムクラッシックのオリジナル商品。マーカーは、川奈ホテルゴルフコースのものだ。何故別々なのか?すぐなくしてしまうんですマーカーを。Ai_Dscf0856でも案外これは、最強コンビかもしれないと思ってます。もうなくしませんように・・・・



2006年9月10日日曜日

ハンチング

2006_09090001 ゴルフの時はいつも「ハンチング帽」をかぶる。すーさんという先輩の真似で始めたが、最近やけに気に入って何種類か買ってしまっている。季節とウェアーに合わせてその日の帽子を決める。元は狩猟用で日本語では鳥打帽という。ハンチングにも色々な種類があります。トップが一枚天井で円に近いものは少しレトロな印象ですが、これが正統派です。同じ一枚天井でも幅が狭く楕円形なのはアイビーといい、後ろまでつながっているものはモナコと呼ばれます。現在主流はサイドや後ろに調節がついているものです。また、ベレーに似た形で型入れをして形作っているものは プロムナードと呼ばれています。ちょっと気取った感じですが、ゴルフがうまそうに見えるので是非お試しを。帽子といえば、水戸時代のI氏。夏によく麦わら帽をかぶってました。酒焼けした顔と相まって、どうみても「タイ人」にしか見えなかったです。そんなI氏と来週久しぶりにゴルフをします。最近元気がないみたいなので、一つ励ますとしましょう。



2006年9月5日火曜日

サッカー 日本VSサウジ

何故 日本は、アウェイの戦い方をしないのだろう。昨夜は完全に戦術のミスだ。あんな酷暑の中で、ホームと同じような攻撃スタイル。アジアレベルでは、サウジといえどもアウェイでは逆に攻めさせてカウンターで十分なのに。結局、消耗していつものようにミスを連発。つまらない点のとられ方で敗退。日本の失点には、必ず不用意な横パスがあることを忘れてはならない。昨日もサントスから遠藤へのパスをカットされてところから点が入っている。4年前、日韓W杯が始まる前から、中田(浩)の不用意な横パスで日本は負けると予言していたが、トルコ戦で案の定やってくれた。まあ過去の話は置いといて、日本の戦い方の根本はやはり「Jリーグ」にある。Jリーグでは、ホームアドバンテージがあまりない。だからアウェイでの絶対的戦術が生まれてこないのだ。どこでやっても同じ戦い方をする。攻められないのは、相手が格上の時だけ。守って守って1点をとる戦い方をしらない。パラグアイのような戦い方が時には必要だと思う。パラグアイは南米で、攻めまくるブラジル・アルゼンチンをいつも相手にしないといけないから、ああした戦術を国として持っている。日本は見習うべきではない。ギリシャが、2004年欧州選手権を制した時から、世界のサッカーは変わったんだと私は思っている。今回のワールドカップがそれを証明している。ブラジル、アルゼンチンの華麗な攻めでは世界を獲れなかった。守って守って1点をとる戦いが、決勝トーナメントで見えたではないか。確かに観る者はつまらない。しかしそれが現実なのだ。アジアレベルでも中東での試合はそうすべきだと私は強く思う。



2006年9月3日日曜日

コンペ優勝

今日は、北海道の千歳(新千歳カントリー)にて会社のゴルフコンペでした。前回の悪いスコアのハンディーが功を奏して見事優勝でした。前半は、12パットと絶好調の42。バーディーも1つ。後半は、いつものように体力負けで47。しかしやっと今年念願の80台がでました。この所、91までで何度も跳ね返されていたので非常にまんぞくの一日でした。気温は、17℃~22℃、快晴と最高のコンディション。やっぱり夏のゴルフは”北海道”に限ります。Hamanasu_12 汗一つかかず、清清しい陽気。白樺は美しく、心も洗われます。北海道は、スルーが基本です。18ホール終わって、パーティー。込んでいないのでストレスもなく回れました。今年の内にもう一度プレーしたいものです。