2009年9月22日火曜日

鹿島神宮

東国三社と言われている、「鹿島神宮」「息栖神社」「香取神宮」を参拝。鹿島・香取は、平安の昔は、伊勢とならび3つだけ神宮と呼ばれた由緒正しい社である。官幣大社でもある。まずは、鹿島神宮へ。自宅から北関東自動車道で40分。水戸時代に、ほぼ毎週通過していたが、参拝は初めてだ。



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上の写真の大鳥居(ニの鳥居)から、まっすぐ、神門・拝殿・奥宮と道が伸びている。しかし、実は鹿島神宮には、別の場所に、一の鳥居が2つある。1つは、鹿島神宮の北東、鹿島灘に面した明石の浜という所だ(東の一の鳥居)。この鳥居から鹿島神宮本殿そして南西の香取神宮本殿へと一直線で結ばれているのだ(45度線)。2つ目は、鹿島神宮の南西、北浦に面する湖畔「大船津」というところにある。こちらが真の一の鳥居だ。港・船・航海に関係していることを意味するのであろう。「香取神宮」も一の鳥居が、鹿島に向かう利根川沿いに配されており、両神宮が一体といわれる由縁であろう。



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拝殿・本殿には、いたるところに、ご神紋「三つ巴」が配されている。そして、その奥には、巨大かつ高いご神木が美しい。実はこの本殿はめずらしく北面をしているのである。通常は、逆の南面が多いが。これは、蝦夷の地である東国を征圧する拠点としての「鹿島神宮」が、遠く東国に睨みを利かせているからだそうだ。ちなみに北面する神社が全くないわけではない。厳島神社・吉備津神社・吉野宮などが有名だ。



さて、ご祭神は、出雲国譲りの主役「武甕槌神」である。武神として大国主命に国譲りを迫り、その息子「建御名方神」を諏訪へ追いやった神である。そしてここにレイラインが存在する。鹿島神宮と諏訪神社のご神体守屋山が、ほぼ東西一直線で結ばれているのだ。守屋山山頂の位置(北緯35度58分04秒)ー 鹿島神宮の本殿の位置(北緯35度58分08秒)これは、春分・秋分の日に、太陽は、鹿島から守屋山へと通過することを意味する。勝者「武甕槌神」から日が昇り、敗者「建御名方神」へ日が沈んでゆくというわけだ。



しかし、鹿島神宮はこれだけではない。



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本殿から奥へ進むと奥宮がある。ここには、「武甕槌神荒御魂」が祭られているが、そこから南へすすむと「要石」なるものがある。わずかに地中から顔をだす凹型の石だ。要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の 頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地 震がないと伝えられている。水戸の徳川光圀公が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘らせたが、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできなかったと伝えられる。そして「香取神宮」にも要石がある。その石は凸型で、こちらは、大鯰の尾を押さえているという。また、この2つの石はつながっているという話もある。おもしろい。



最後にもう一つ。中央構造線について書いておきたい。



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関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層をそう呼ぶ。そして、この線上には、有名な神社仏閣が位置しているのだ。南から、阿蘇神社・幣立宮・高千穂各社・日前神社・高野山・丹生神社・伊勢神宮・豊川稲荷・秋葉神社・諏訪大社・氷川神社・鹿島神宮・香取神宮・・・。そうそうたる霊場である。ゼロ磁場が存在するこの線上だからこそ、パワースポットといわれるのだろう。これら、社寺は地中のエネルギーを鎮める役割を背負っているかのようだ。鹿島神宮はその最東端に位置するのである。また、地図真ん中を見てもらい。諏訪大社は、この中央構造線だけでなく、フォッサマグナの西側線(糸魚川静岡線)とも接している。そして氷川神社は、フォッサマグナの東側線(柏崎千葉線)にも接しているのである。これこそまさに鎮座!!



息栖神社

二番目は、神栖町という所にある「息栖神社」。鹿島神宮の南に位置する。



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息栖(イキス)神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神、天鳥船神を相殿の神として祭られている。鹿島・香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社だ。岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神としての御神徳が顕著で神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものである。また岐神(くなどのかみ)は、道の別れ目のところで道を間違えないように教えてくれる神で、東国開拓の折り、出雲の国から 東国に武甕槌大神(たけみかずちのお おかみ)を先導した神様である。そして 天鳥船神は国譲りのさい、武甕槌大神 を出雲の国に先導した神様だ。神栖にありながら「息栖」。たぶんイキではなくオキではないか?住吉三神つながりで神功皇后=息長帯姫オキナガタラシヒメのオキではないか?



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ご神紋は、鹿島神宮と同じ「三つ巴」のようだ。そしてここ息栖神社は、香取神宮の真東に位置する。香取神宮ー北緯35°52′58″息栖神社ー北緯35°52′57″である。鹿島ー息栖は、残念ながら真南ではないが、香取ー息栖も鹿島ー息栖もその距離9kmで、三社は綺麗な二等辺三角形を描く。おもしろい。



香取神宮

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最後に「香取神宮」を参拝。ご祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)。鹿島神宮のご祭神 武甕槌神と経津主神は、同一神ともいわれている。また、『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。葦原中国平定で武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。しかし、フツというのは、スサノオの父の名前とも言われ、布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。そして、香取神宮が鎮座するこの山の名前は「亀甲山」。亀甲は、出雲の印。また、経津主神はスサノオを祀る「八坂神社 祇園祭」に繰り出す 荒久の山車飾りにも登場する。やはりどう考えても香取は出雲系???。



それはさておき拝殿=本殿は、息を飲む美しさであった。



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檜皮葺屋根、黒漆権現造りで周囲の朱色に対比して荘厳な雰囲気をかもしている。ご神紋は、「五七の桐」(下写真左)といわれているが、「五三の桐」紋(下写真右真ん中)も配されていた。 (*写真はクリックで拡大できます)



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こちらは、鹿島神宮と反対に本殿は、南面している。二社で一体ということか。ご神木の三本杉も誰しもが目を奪われるすばらしいものだった。旧参道を歩いてゆくと、そこには奥宮がある。経津主神の荒御魂を祀っている。これも鹿島神宮と同じ構造である。そして、その左奥に、要石が。



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確かに、凸型だった。東国三社の神域を堪能した一日であった。









2009年9月14日月曜日

枚聞神社

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宮崎から約230km。3時間かけて薩摩富士の異名をもつ「開聞岳」を御神体とする、薩摩国一之宮「枚聞神社」に参拝。上の写真は、池田湖の畔から撮った開聞岳。さすがに美しい。ずっと見ていても飽きない。



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「枚聞神社」の鳥居の奥に開聞岳が聳える。ご祭神は「大日孁貴命おおひるめむちのみこと」すなわちアマテラス。ご神紋は「四つ割菊」だが、鳥居も拝殿・本殿にも十六菊が配されている。どこかにないか?あった。拝殿手前の「神馬像」の体に見事に、ご神紋が。



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敷地はそれほど広くないが、美しい神社であった。



しかし、拝殿・本殿にあった(写真下)、尾長右三つ巴と流れ巴の変形のような神紋が気になった。



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ここから、知覧町へ向かうが、途中、海岸沿いからの開聞岳を写真に。やっぱりいい。



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ミュージアム知覧

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宮崎勤務の間に行っとかないといけない「ミュージアム知覧」へ出かけた。知覧町へ入ると、ミュージアムまで道の両脇に灯篭が並んでいる。沖縄戦の特攻基地となり多くの若者(1035名)がここから飛び立っていったのだ。館内には、全国各地の遺族や関係者から寄せられた特攻隊員たちの遺影や遺品、記録等の資料が展示され、厳粛な中に死を賭して祖国危難に立ち向かった隊員たちの姿を残している。特に数多くの遺書は、心を抉られる。そして特攻直前に写された、穢れなき笑顔の写真に涙しない者はいないだろう。



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2009年9月10日木曜日

舞い降りた天皇(すめらぎ)

Photo Photo_2  加治将一著 小説「舞い降りた天皇(すめらぎ)」を読む。



倭国は卑弥呼の時代から、呪力で国を治めてきた。女王・卑弥呼亡き後、祭祀を握った最高司祭者が初代天皇「X」だ。「X」とは一体何者なのか、どこから来たのか―歴史小説家・望月真司の古代史解読が進む。『魏志倭人伝』が距離表示を使い分ける理由、「八咫の鏡」を思わせる銅鏡が出土した北九州の遺跡、天皇の“指名権”を持ち、神武とゆかりの深い宇佐神宮。朝廷をも牛耳った渡来人・秦氏。そして京都と奈良に分祀された皇祖神の源流…。点と点は、朝鮮半島と北九州の間に浮かぶ二つの「島」で結ばれた!日本はいかにして誕生したのか。天皇「X」はどこから来たのか。いま、すべての秘密が明らかになる。 



共感する部分とちょっとそれはという部分が交錯するが、非常におもしろい論点を含んでおり、一気に読むことができた。(出雲・スサノオの扱いが不満ではあるが)





2009年8月31日月曜日

駒宮神社・吾平津神社

日南市にある「駒宮神社」「吾平津神社」に参拝。まずは、「駒宮神社」。



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ご祭神は「カムヤマトイワレヒコ」。高原町の皇子原で過ごした後、ここで幼少時代を過ごしたとされる日向伝説の少宮址。ここには、愛馬「龍石号」とイワレヒコの銅像がある。



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シャンシャン馬発祥の地と伝えられている。ご神紋は、「五三の桐」みたいだ。



そして拝殿の奥には、宮崎へ向かう前に鉾を預けた「御鉾の窟」があった。



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さて、次は「吾平津神社」。通称「乙姫神社」。ご祭神は、イワレヒコの妻「アヒラツヒメ」。勿論、このあたりは乙姫という地名である。運河をはさんで、鳥居がみえる。



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ここは、台風の時に必ずTVに登場する「油津港」のそば。そう油津とは、アヒラツから来ているのだ。神紋は「庵木瓜」のようだ。加江田神社と同じだ。飫肥藩「伊東家」の家紋らしいが、やはり木瓜は、スサノオの匂いがする。???



2009年8月29日土曜日

木花神社&加江田神社

今朝は、早朝ゴルフに出かけた。朝5時30分スタート。青島ゴルフ倶楽部だ。5時15分到着。まだ真っ暗だ。25分くらいから、一望できる太平洋から少しずつ光が。夜明けだ。30分~まだ暗い。35分~パター練習はできそうだ。40分スタート。1打目を皆打つがボールはまだ良く見えない。2ホールからやっと朝が来た。10時に終了。風呂に入り、地元海鮮の店「網元」でちらし丼を食べ満腹。



さて、そのあと帰り道なので近くの「木花神社」「加江田神社」を参拝。まず「木花神社」。



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木花神社のご祭神は、「コノハナサクヤヒメ」。ここにも西都の都萬神社同じようにニニギノミコトとの結婚、三皇子の出産の伝えがある。三皇子が産湯に使ったとされる「霊泉桜川」や産屋である無戸室(うつむろ)の跡とされるものもある。誰も訪れないような古びた神社であった。残念だ。



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その後、「加江田神社」にも参拝。こちらは、天照大御神をご祭神とし加江田伊勢神宮と称していた。宮崎で、天照大御神を主祭神とする神社は、名がある神社では実は少ない。天岩戸神社東宮、大御神社、榎原神社、加江田神社くらいか。



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さほど広くはないが大きな杉に囲まれた趣のある境内であった。さて、ご神紋だが、何故か「庵に木瓜もっこう」というもの。かつて、この地を治めていた伊東家の家紋らしい。しかし瓜といえば素盞嗚。何故?不思議だ。加江田神社と同じ日に近くに熊野神社(熊野という地名もある)でもお祭りがある。熊野といえばやはり素盞嗚。やはり・・・。



さて、コノハナサクヤヒメを祀る「木花神社」と薩摩国一之宮であるニニギノミコトを祀る「新田神社」。夫婦を祭るこの二つの神社は、真東ー真西の一直線で結ばれている。これもまた不思議だ。 <新田神社;北緯 31.493937 - 木花神社;北緯 31.493944>











2009年8月26日水曜日

祇園神社(宮崎)

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日南市 油津の海岸沿いに、洞窟を本殿とする。「祇園神社」なる祠がある。それも、ご祭神は「素戔嗚尊」。日向伝説の宮崎には、極めてめずらしい神社といえよう。<五ヶ瀬町に同じく祇園神社あり>
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もともとは、龍神・水神を祀っていたのであろう。
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2009年8月24日月曜日

役小角 仙道剣

Ennoozunu 黒岩重吾著「役小角 仙道剣」を読む。役小角は、奈良時代の呪術者である。実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。仏法を厚くうやまった優婆塞<うばそく>(僧ではない在家の信者)である。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。葛城山の地を牛耳る「鴨氏(賀茂氏)」の出である。



役小角は、厳しい律令制度に虐げられる人々を救うために、異能を駆使して権力者に立ち向かう。鬼神の如き活躍を慕って多くの弟子たちが葛城山中に集結、遂に一大勢力の中心となった役小角を狙って、時の権力者・持統天皇や藤原不比等、物部麻呂率いる刺客の群れが迫り来るが――。傑出したパワーで古代史に名を轟かせた異才の半生を描く古代ロマンの巨編。



2009年8月23日日曜日

神社仏閣に隠された古代史の謎

Photo 関裕二著「神社仏閣に隠された古代史の謎」。古代史に関わる神社・仏閣の紹介です。勉強になります。



2009年8月17日月曜日

妻垣神社

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古びた鳥居が、何かを隠さないがためにたたずんでいる。当社を『日本書紀』(巻三)の「一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)(『古事記』では「足一騰宮」と表
記)
とする伝承がある。日向から大和を目指して東征する神武天皇がこの地に至ったおり,一帯を治める菟狭津彦(ウサツヒコ)と菟狭津媛(ウ
サツヒメ)
が「一柱騰宮」を造って天皇を饗応したとある。(私は、スサノオとムカツヒメが暮らしていたという説に興味がありその方がロマン溢れると考えるが)
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現在の祭神は,比咩大神(玉依媛命),応神天皇,神功皇后の三柱である。よってご神紋は「三つ巴」紋。
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暑い夏の昼下がり、一人で古代に想いを巡らせるのも楽しい。



宇佐神宮

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やってきました。宇佐神宮です。言わずと知れた全国四万四千社と称する八幡宮の総本社です。式内社にして旧官幣大社。その敷地は広大です。ご祭神は、神殿の順に応神天皇(一の御殿)、比咩大神(ひめのおおかみ/二の御殿)、神功皇后(三の御殿)の三柱の神で上宮・下宮に祭られている。元々、比咩大神だけを祀っていた上、この比咩大神にも諸説ある。あまりにも長くなるので今日はやめておこう。
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入口から延々と歩き、たどり着いた八幡鳥居を抜けると本殿へ抜ける西門が見える。さて宇佐神宮の鳥居に注目。通常「額束」といって神社名を書いたものが真ん中にあるのだか、それがない。そして、黒い台輪が島木の下にくっついている。「宇佐鳥居」と呼ばれる独特のものだ。
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本社は小高い小椋山にある。社伝によると亀山らしい。うーん、やはり出雲系の匂いです。そして見事な拝殿。神紋は当然「三つ巴」。
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さすが立派です。



2009年8月15日土曜日

高校同期会

実家の下関。高校時代の同期会に参加。下関西高56期生だ。30年ぶりの再会の前に、卒業アルバムを持参することにした。25・6名集まった。予想通り、過去の面影が跡形もない奴が何名も、アルバムを見ながら、その変わりようを確かめ合う。髪が全くない者。体が3倍にも膨らんでいる者。意外と変わっていないと言われる自分に少し満足。5時間半に渡り、当時の思い出や現在の仕事など語り合った。東京・大阪などからも皆帰郷していた。楽しい時間を過ごした。来月、また大阪で何名かと当時の恩師とも会う事になっている。これもまた楽しみだ。



2009年8月14日金曜日

高良大社

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帰郷、下関への道すがら、久留米にある「高良大社」に立ち寄る。筑後国の一宮で、式内大社である。主祭神は、<高良玉垂たまだれ命>とされるが、日本書紀や古事記は、この神様を抹消している。この神は一体誰なのか興味はつきない。武内宿禰説が今は定説。ご神体山である高良山は、北部九州において、非常に戦略的な位置にある。日田方面から攻められた場合、この山は防御に最前線になる。また、高良山から、筑紫平野は一望できるのだ。



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ご神紋は、「横木瓜」と「三つ巴」。「三つ巴」は、八幡神が一緒に祀られているので納得。しかし「瓜」は素盞嗚のシンボル。たぶん出雲系の神が当初は祀られていたのでは??



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筥崎宮

034a日本の三大八幡宮の一つ。筥崎宮を参拝。筥崎宮といえば、この鳥居。筥崎鳥居と呼ばれる独特の鳥居。鳥居の柱は3つに切れ、下肥りとなり台石に続く。笠木島木はひとつの石材で、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ。かの黒田長政により建立されたものだ。そしてもう一つ。
036a楼門にある「敵国降伏」の篇額。元寇の時に、亀山上皇によって奉納された醍醐天皇の宸筆とされる。

感無量!!




2009年8月10日月曜日

皇宮神社

宮崎神宮の摂社である「皇宮神社」を参拝。神武天皇が、幼少の頃高原の狭野からこの地に移られ宮居されたとする由緒ある場所だ。石段を登った右手に、「皇軍発祥の碑」がある。昭和10年に昭和天皇の参拝があり、昭和15年に顕彰された。



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そこを過ぎて静寂の森の中、鳥居を抜けると拝殿一つのこじんまりした皇宮神社がある。皇宮屋(こぐや)とも言われる。



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2009年8月7日金曜日

邪馬台創世記

Photo黒須紀一郎作、小説「邪馬台創世記」を読む。神武東征に先立ち、出雲の大王=素佐之男(スサノオ)の三男大歳(オオトシ)として古代ヤマトを統一した初代の邪馬台国王アマテラス。『記紀』に歪められた古代史の謎を暴く瞠目の書下ろし古代史ロマン。