2007年1月8日月曜日

白虎隊

年末年始になると、お馴染みのように「白虎隊」がとりあげられる。そこに、非戦闘員であった16~17歳の少年までも盾として担ぎ出した当時の大人達の非は語られない。勿論、当時すでに会津領民に見限られていたこともである。家永三郎《日本の歴史4》に次の記述がある。「若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、村役人を新しく選挙した。」と。すなわち会津農民や領民はあかの他人といわんばかりに会津藩をすでに無視していたのだ。そればかりでなく会津武士(かの白虎隊からも)の死骸から衣服や金目のものを剥ぎ取って売った。戦後、農民達は藩士の死体収容すら拒否したのだ。もっとも会津藩士たちも農民たちの田畑を踏み荒らし、 官軍の休息場所を無くすといって村々に火を掛けて焼き払った 住む家も耕すべき田畑も失った農民たちの怒りはいかばかりであったのであろう 。領民を蔑ろにし、女(娘子軍)子供(白虎隊・幼少組)にまで闘わせるぐらいなら降伏しとけばよかったのだ、と私は思う。 松平容保は、明治に入ると、鳥取藩での蟄居を解かれると、東京は目黒の豪邸でのうのうと過ごしている。上級武士も藩の財産をネコババして、会津や東京で悠々自適の余生を送った。それを「会津士魂」と賛美できるであろうか。否である。そして、その後、白虎隊は、ヒトラーやムッソリーニに賞賛され、(ヒトラーユーゲントは、わざわざ白虎隊の墓まで来ている。ナチは石碑を贈り、ムッソリーニは、豪勢な記念碑まで贈っている。)日本の軍国主義者たちに利用され、学徒出陣少年兵の象徴となったことも、 神風特攻隊も国の為に戦って死んだ青年達もこの白虎隊が模範であったことも忘れてはならない。いつもいつもただ時代に立ち向かった少年達の悲哀しか語られない。残念なことだ。



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