2007年3月3日土曜日

留魂録 その4

ニ、



七月九日、初めて評定所呼出しあり、三奉行出座、尋鞠の件両条あり。一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をなせしや。二に曰く、御所内に落文あり、其の手跡汝に似たりと、源次郎其の外申立つる者あり、覚ありや。此の二条のみ。夫れ梅田は素より奸骨あれば、余与に志を語ることを欲せざる所なり、何の密議をなさんや。吾が性公明正大なることを好む、豈に落文なんど曖昧の事をなさんや。余、是に於て六年間幽因中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江候を要する等の事を自首す。鯖江候の事に因りて終に下獄とはなれり。



7月9日に初めて評定所から呼出があった。三奉行が出座して次の二点について私を尋問した。まず一つは、梅田源次郎(雲浜)が長州に行ったとき面会したというが、如何なる密議をしたのか。今一つは、御所内に落し文があったが、その筆跡は、お前の筆によく似ていると源次郎その他は言っているが、覚えがあるかということであった。梅田は、元来より奸智にたけており、共に志を語るに足らぬ男と思っていた私が、何で密議を交わすことがあろうか。私は、もとより公明正大に行動することは信条としている。落し文などという隠れた陰湿なことなど決してするものではない。私は、此のことをきちんと明らかにしておいて、6年間の幽因生活中に、あれこれと苦心したことを陳述し、ついに大原公の西下を誘い、鯖江候要撃計画のことなどを自供したのである。鯖江候自供の件により、ついに獄に投じられることとなったのである。



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三奉行とは、寺社奉行 松平伯耆守/町奉行 石谷(イシガヤ)因幡守/勘定奉行 池田播磨守の三名である。他に、大目付 久貝因幡守も同席していた。梅田雲浜は元若狭藩士で尊皇攘夷派の志士である。安政の大獄で2番目に逮捕され、獄中死している。上方と長州の物産交易に従事していたが、松陰先生は、雲浜は志士ではなく商人だと見ていたので、好きではなかったようだ。よって密議など有ろうはずがない。もし、自ら老中鯖江候(間部詮勝)暗殺の件を自白しなければ、遠島くらいで済んだかもしれない。遡ること1年10ヶ月、安政5年1月6日、「狂夫の言」を松陰先生は、提出している。大まかは、藩政改革案であるが、そこには、日本国への危機感(通商条約の締結を強要している米国の策謀を警戒もしている)が綴られている。有名な言葉がある。



天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるに在り。
苟も大患の大患たる所以を知らば、寧んぞ之れが計を為さざるを得んや。



【訳】
世の中の大いに憂うべきことは、国家が大いに憂慮すべき状態にある理由を知らないことにある。 仮にもその憂慮すべき事態になる理由を知れば、どうしてその対応策を立てないでいられようか。 立てるべきである。



幕府は保身に走り、無策でいる。此の大事に、命を懸けて日本を護ろうするものがいない。それが、松蔭先生には、腹立たしかったのであろう。激烈な松陰先生は、この時期からであった。この章で出てくる自白は、この後の志士達の決起を促す死を覚悟のことであったでろう。



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