2007年3月25日日曜日

留魂録 その6

三、続き



幕府の三尺、布衣、国を憂ふることを許さず。其の是非、吾れ曾て弁争せざるなり。聞く、薩の日下部伊三次は対吏の日、当今政治の欠失を歴詆して、「是くの如くにては往先三五年の無事も保し難し」と云ひて、鞠吏を激怒せしめ、乃ち曰く、「是を以て死罪を得ると雖も悔いざるなり」と。是れ吾れの及ばざる所なり。子遠の死を以て吾に責むるも、亦此の意なるべし。唐の段秀実<ダンジュウシツ>、郭曦<カクギ>に於ては、彼れが如くの誠悃<セイコン>、朱泚<シュセイ>に於ては彼れが如くの激烈、然らば則ち英雄自ら時措の宣しきあり。要は内に省みて疚しからざるにあり。抑々<ソモソモ>亦人を知り幾を見ることを尊ぶ。吾れの得失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ。



幕府の法によれば、庶民が国を憂うことを許していない。その是非について、私は弁じたり争ったしなかった。聞くところによると、薩摩藩士 日下部伊三次は、取調べ時に、現在の幕府の政治の欠陥を徹底的に論じ「このような有様では、幕府は三年か五年しかもたないであろう」と言ったため、幕吏は激怒したとのこと。しかもさらに「これで死罪となろうとも悔いることはない」言ってのけた。私などには遠く及ばないところだ。杉蔵が私に死を覚悟せよと言ったのはこの意味かもしれない。唐の段秀実は、郭曦には誠意を持ってあたり、朱泚には、激烈に対し殺された。英雄は、時と場所において、それにふさわしい態度で臨むものである。真に大事なことは、己を省みて疚しくない人格を持つということであろう。そしてまた、相手をよく知り、機を見るということを大事にしておかねばならない。私の人間としての有り様が良いか悪いかは、棺桶の蓋を覆った後、歴史の判断にゆだねるしかあるまい。



三尺とは、昔法律は竹の三尺ほどの簡に描かれたのでこう呼ばれた。また、布衣とは、、木綿や麻でつくられた庶民の服のことで、ここでは「庶民」そのものとして使われている。「布衣の交わり 」という言葉があるが、これは、身分の低いもの同士の交際。 または、お互いの身分地位を考慮に入れない心からのつきあい を意味する。



日下部 伊三次(くさかべ いそうじ)1814-1858 は薩摩藩士で、勤王の志士であった。水戸藩と薩摩藩との使者として暗躍し、朝廷に工作を行っていた。幕府や新撰組の追求から逃れるため深谷左吉、宮崎復太郎と名乗ることもあった。安政五年(1858)安政の大獄により梅田雲浜・橋本左内、頼三樹三郎らとともに獄死している。



段秀実は、唐の人、徳宗(9代目)の司農卿。顕官 郭子儀の子 郭晞が父の威を借りてやり放題だっだので、これを諭し改心させた。松陰先生の郭曦<カクギ>は、誤字であろう。また、朱泚<シュセイ>が謀反を企てた時、秀実に加担を誘ったが、彼は牙笏<ゲシャク>を奪って撃ち面罵したため、殺された。文天祥「正気の歌」に或為撃賊笏 或いは賊を撃つ笏と為りの句がある通り、忠義の人であった。いずれにせよ、松陰先生は、この詮議にあってあくまでも冷静に対処しようとしたことが伺える。



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