2008年3月17日月曜日

留魂録 その12



東口揚屋に居る水戸の郷士堀江克之助、余未だ一面なしと雖も真に知己なり、真に益友なり。余に謂って曰く、「昔、矢部駿州は桑名候へ御預けの日より絶食して敵讐を詛ひて死し、果たして敵讐を退けたり。今足下も自ら一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払はれよ、一心を残し置きて給はれよ」と丁寧に告戒せり。吾れ誠に此の言に感服す。又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば、天下の事総べて天命に付せんのみ、但し天下の益となるべき事は同志に托し後輩に残し度きことなり」と。この言大いに吾が志を得たり。吾れの祈念を籠むる所は同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して尊攘の大功を建てよかしなり。吾れ死すとも掘・鮎二子の如きは海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交を結べかし。又本所亀沢町に山口三輶(サンユウ)と云ふ医者あり。義を好む人と見えて、堀・鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事二子より申し遣はしたれば、小林の為めにも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん、且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。



東口揚屋にいる水戸の郷士・堀江克之助には未だ一度も会ったことがないが、真の知己であり、真の益友だと思っている。彼は私に次のようなことを伝えてくれた。「昔、矢部駿州は桑名候へお預けの身ととなったその日から絶食して、仇敵を呪いながら死に、果たしてその仇敵を退けることができた。今、あなたも自ら一死を期するからには、祈念をこめて内外の敵を払われよ。その心をこの世に残しておかれるように」丁寧に戒めをくれた。私は心から感服した。また、鮎沢伊太夫は、水戸藩士で堀江と同じ獄につながれている。彼もまた私に伝えてくれた。「今、あなたにどのような判決が下るか予測できない。自分は遠島と決まったので、島に送られたら、天下のことはすべて天命にまかすより他なしと思っている。しかし天下の益となることは、同士に託し後輩の者に残しておきたい。」この言葉も大いに我が意を得たのである。私が祈念をこめて願うのは、同士の人々が強い意欲をもって私の志を継ぎ、尊王攘夷の大功を立ててくれることである。私が死んだあと、堀江・鮎沢両人が島流しにあろうと、獄中にあろうと我が同士たらん者は、彼らと交わりを結んでもらいたい。また、本所亀沢町に山口三輶という医者がいる。義を好む人と見えて、堀江・鮎沢両人のことを、獄外から支援している。さらに、私がこの人に及ばないと思ったのは、両人から頼まれて、一面識もない小林民部についても支援していることだ。この人は、思うに非凡な人である。かくして三人への連絡は、この三輶老に頼むとよい。



堀江克之助(ほりえよしのすけ)は、アメリカの総領事ハリスを切ろうとして逮捕された人物である。鮎沢伊太夫(あゆざわいだゆう)は水戸藩士で、水戸密勅問題で投獄。遠島。戊辰の役で戦死、享年45歳。山口三輶(やまぐちさんゆう)は、志士の面倒をよくみた町医者。小林民部(こばやしみんぶ)は、鷹司家の諸太夫、尊攘運動に奔走、水戸密勅事件で逮捕、伝馬町獄で死す、享年52歳。



勢州桑名の幽囚中に憤死したる矢部駿州は「幕末三俊」の一人です。矢部は三百俵取りという下級旗本から三千石の勘定奉行、町奉行に出世します。そして「妖怪」と嫌われ、恐れられていた鳥居耀蔵に貶められて失職。そればかりか、罪に落とされることとなって、桑名藩へ預けられ、言い伝えでは鳥居と鳥居を用いた老中水野忠邦を恨んで、みずから餓死、という壮絶な自殺を遂げたということです。









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