かの高杉晋作が、長府功山寺でわずか80人余で決起した直後、白石正一郎の末弟・大庭伝七にあてて手紙を書いたが、その最後につぎの詩がある。
売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高節成功略 欲学二人作一人
国を売り君を囚(とら)え至らざるなし 生を捨て義を取るはこれ この辰(あした)
天祥の高節成功の略 二人を学んで一人と作(な)らんと欲す
(訳)国を売り主君をとらえて俗論派は暴虐をきわめている。命を捨てて義をつくすのはまさにこのときである。文天祥(南宋の忠臣)の高節と鄭成功(清に抗した明の謀臣)の策略と、2人に学んで1人でなさねばならぬ。
あえて主君の城に弓を引く、晋作のなみなみならぬ決意が表われている。
さて、この漢詩に登場する「文天祥」は、隠れたる中国の英雄である。それも愛国の士であるから、さらにめずらしい。南宋の忠臣である。南宋の忠臣といえば岳飛をおいてないと思うが、文天祥も負けず劣らず中国では人気があるらしい。元と戦うのだがこれといって華々しい活躍をしているわけではない。しかし捕獲され死ぬまで獄中にある時、山に追い詰められた宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断る。この詩は、「人生、古(いにしえ)より誰か死無からん。丹心(たんしん※まごころ)を留取して、汗青(かんせい※史書)を照らさん」で終っている。「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでフビライは何度も勧誘するが、頑として受け入れない。この時、有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだ。文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖も広瀬武夫もそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。
『正気の歌』 文天祥
天地正気有り 雑然として 流形を賦(う)く 下りては則ち河嶽となり 上りては則ち 日星となる 人においては 浩然と曰い 沛乎として 蒼冥に塞(み)つ 皇路 清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く 時窮すれば 節即ち見れ一一 丹青に垂る
斉に在りては 太史の簡 晋に在りては 董狐の筆(ひつ) 秦に在りては 張良の椎(つい) 漢に在りては 蘇武の節
厳将軍の頭と為り 稽侍中の血と為る 張雎陽の歯と為り 顔常山の舌と為る
或いは遼東の帽と為り 清操 氷雪よりもはげし 或いは出師の表と為り 鬼神 壮烈に泣く 或いは江を渡る楫と為り 慷慨 胡羯(こかつ)を呑む 或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎(ぎゃくじゅ)頭破れ裂く
この気の旁薄する所 凛烈として 万古に存す その日月を貫くにあたっては 生死 いずくんぞ論ずるに足らん 地維は頼って以て立ち 天柱は頼って以て尊し
三綱 実に命に係り 道義 之が根と為る 嗟 予(われ)陽九に遭い
隷や 実に力めず 楚囚 その冠を纓し 伝車 窮北に送らる
鼎獲 甘きこと飴の如きも 之を求めて 得べからず 陰房 鬼火闃(きかげき)として
春院 天の黒きに閉ざさる 牛驥 一そうを同じうし 鶏棲に鳳凰食す
一朝霧露を蒙らば 分として溝中の瘠と作らん 此の如くして寒暑を再びす
百れい 自ら辟易す 嗟(かな)しい哉(かな) 沮汝の場の 我が安楽国と為る
豈に 他の繆巧あらんや 陰陽も賊なう能わず
顧みれば 此の耿耿として在り 仰いで 浮雲の白きをみる
悠悠として我が心悲しむ 蒼天 なんぞ極まりあらん 哲人 日にすでに遠く
典刑 夙昔に在り 風簷(ふうえん)書を展べて読めば 古道 顔色を照らす
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(訳)
この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。
例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。
君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。
ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。
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自ら正気を貫き通した文天祥は3年の幽囚の後ついに殺された。
享年47歳。松陰先生は、これに強い影響を受けているが、晋作も同様であろう。
こうして幕末回天は動いてゆく。
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