2007年2月17日土曜日

留魂録 その2

一(続き)



然るに五月十一日関東の行を聞きしよりは、又一の誠字に工夫をつけたり。時に子遠死字を贈る。余是を用ひず、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり」に一句を書し、手巾へ縫ひ付け携へて江戸に来り、是を評定所に留め置きしも吾が志を表するなり。



(訳)



然しながら、5月11日の東送の命令を聞いてからは、「誠」という字について考えてみた。すると、たまたま杉蔵がこんどは「死」の字を私に見せて、死を覚悟するよう説いてくれた。私としては、そのことは考えないようにし、一枚の白木綿の布を買い求めて、孟子の「至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり」の一句を書いて、手拭に縫いつけ、江戸の携えてきた。そして、評定所に留めおいたのも、自分の意志を表すためであった。



**********



孟子 離婁章 上第十二に「至誠にして・・・」の言葉はある。ちなみに離婁とは、伝説上の人物で、視力が非常にすぐれ、黄帝が珠を失った時、命を受けてこれを探した。離婁は百歩はなれても獣の毛の先をよく見分けたといわれている。さて松蔭先生は、山鹿流兵学者であったが、孟子に傾倒している。孟子の性善説が松蔭先生の心を惹きつけたものと推測する。だが民本思想にある易姓革命は当然否定していたものと考えられる。先生は、野山獄にあった時、牢内にて孟子講義を同じ牢人達に行なっている。(他に、獄中1年2ヶ月 松陰先生は492冊の書物を読んだとのこと)それが後に「講孟箚記」または「講孟余話」となって残っている。「講孟箚記」で松陰先生は、至誠を以下の如く説明している。



文王至誠にして、老を養ふ。故に伯夷・太公動きて興起するなり。天下の人皆動きて是に帰するなり。文王の心、初めより伯夷・太公を動かさん、天下の人を動かんとの心あるに非ず。若し此の心あらば至誠非ず。



(訳)



周の文王は、至誠をもって老人を養った。それ故に伯夷や太公望が感動して奮起したのである。天下の人が感動して王に心を寄せたのである。しかし、文王の心では、その初めに伯夷や太公望を感動させよう、天下の人々を感動させようという下心があったわけではない。もしこの下心があったならば、どのようなことをしても、それは至誠ではない。



と書いている。すなわち、ただ一途の真心こそが至誠であり、松陰先生の生き様の原点であったといえよう。松陰先生は、確かに最後、少し我々から見ても「純真無垢」なゆえに危なっかしい行動が見られる。その行動に際し、高杉や久坂は時期尚早だから静観するようにという。これに対し松蔭先生は大いに怒る。国事は傍観するものではない、「諸友は功業をするつもり、僕は忠義をするつもり」と書き送っている。いかにも松蔭先生らしい激烈さと純真さが出ている。常に下心なく真心をもって一生を生きていく姿に圧倒されずにはいられない。実際、この「至誠」の生き様が多くの弟子達の心に灯りをともし、彼らもまた感化され、感動し行動したのである。晋作も当然その一人である。晋作もまた「至誠」をもって行動し、後に続く者たちの心に灯りをともしたのである。



高杉晋作は、1859年、江戸の伝馬獄に囚われた松陰先生と別れ、萩に帰国した後に一遍の詩を詠んでいる。



我亦藩屏一介臣 満胸豪気幾時伸 



書読了草堂静 笑殺世間名利人
(読み下し)
われまた藩屏(ぺい)一介の臣 



満胸の豪気いずれの時にか伸びん
課書読み了って草堂静かなり



笑殺す世間名利(みょうり)の人

「功名や利欲のみを求める者をあざ笑って退ける」と歌う。この時、晋作の心には功業はない。ただ至誠あるのみか。



Shouinbackkuroshou











(クリック)してご覧下さい。至誠Tシャツです。



0 件のコメント:

コメントを投稿