2007年2月11日日曜日

留魂録 その1



余去来巳来心蹟百変、挙げて数へ難し。就中、趙の貫高を希(コイネガ)ひ、楚の屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙多士一貫高。荊楚深憂只屈平」といふも此の事なり。



(訳)



私は、昨年来実に様々な思いが移りかわって、それは数え切れないほどである。なかでも特に私がかくありたいと願ったのは、趙の貫高であり、楚の屈平であることは諸君のすでに知るところである。だから、入江杉蔵(子遠)は、私が江戸送りになると知って、「燕や趙にすぐれた士は多いが貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を憂う人は屈平だけであった。」という送別の詩を贈ってくれたのである。



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まず登場する貫高は、趙の国の丞相である。王は、張敖(あの張耳の子)。漢の高祖(いわゆる劉邦)が趙王を侮辱したのを怒り、高祖暗殺を考える。しかし趙王 張敖は自分の指を噛んで血を出し、二心のないことを誓い「おまえたちは何ということをいうのか。先君(張耳)はいったん国を失われた。しかし高祖のおかげで国を回復することができたのだ。 その恩沢はわれら子孫にまで及んでいる。どうか二度と、このことを口にしてくれるな」と言う。しかし貫高と趙午ら10余人は「我らの王は温厚な長者であり、徳義に背く人ではない。が、我らも義として、趙王が辱められたのを黙視するには忍びない。 いま高祖を殺すことが、どうして王の徳をけがすことになろう。事が成就すれば功を王に帰し、失敗すれば、我らが罪を受けよう」と言った。B.C.199 高祖は東垣から帰る途中、趙を通った。貫高らは柏人の宿舎の壁の中に人を置き、待ち伏せて高祖を殺そうとした。高祖は柏人に宿泊しようとして 「県名は何というか」と聞くと「柏人県と申します」との答えである。高祖は「柏人とは、人に迫ることだ」として不吉に思い、宿泊しないで去ったので、 貫高の計画は失敗した。B.C.198 密告があり貫高らの陰謀はばれる。そこで高祖は張敖はじめ貫高ら一味を一斉に逮捕した。同志の者はみな自害したが、貫高だけは 「王は少しも陰謀に加わらないのにみな死んで、いったい誰が王の無実を証明するのか」と言い、囚人車に乗せられて長安に送られ、 張敖の罪が裁かれることになる。貫高は、鞭打たれること数千、鉄針をつきさされたりして、もはや打つべき皮膚がなくなったが「ただ自らの仲間だけで謀ったことで、王は何も知らないのだ」と陳述した。 獄官が貫高を取り調べた顛末を言上すると、高祖は「なかなかの壮士だ。誰か彼を知っている者で、私情で聞き出すようにせよ」と言った。 中大夫の泄公が 「わたしは彼と同邑で、旧知の間柄であります。もともと名を立て義を守って、人に凌辱されず、然諾を重んずる人物であります」と言ったので、高祖は泄公に貫高を訪問させた。泄公は貫高の苦痛をいたわり、平生の心おきない口調で語り合った。貫高は、つぶさに事の起こった原因と、王がこれに関知しなかった事情を述べた。泄公は詳細を報告し、高祖はついに張敖を赦免した。そして高祖は貫高の人となりが然諾を重んずるのを賢明とし、泄公をやって貫高をも赦すと伝えさせた。貫高は喜んで「わが王は確かに釈放されましたか」と言った。泄公は「確かに。さらに上にはあなたの振舞いを多とされ、あなたをも赦されたのです」と付け加えた。 すると貫高は「わたしが死のうとしなかったのは、王の無実を明らかにしたい一念からです。いま王が釈放されたうえは、わたしの責任はすでに果たされ、死んでも恨みはありません。それに人臣として簒殺の汚名を蒙ったからには、何の面目があって再び上に仕えられましょう。どうして我と我が心に恥じないでおられましょう」と言い、 仰いで頚動脈を切り、ついに自殺した。



これが貫高である。



次に登場する屈平は、屈原とも言われている。楚の憂国の詩人である。



あるとき、屈平の才能を嫉んだ上官大夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言する。懐王は怒って屈平を遠ざけた。屈平は王が臣下の言葉を聞かず讒言阿諛の徒が聡明を蔽い、邪説曲論が国事を阻害して方正の士が受け入れられぬのを無念に重い、憂愁幽思して『離騒の賦』一篇を作った。またある時、楚と交戦中であった秦が和睦を申し出てきた。楚王(懐王)は「土地は望まぬ。願わくは張儀を得たい」と張儀の身柄を要求した。張儀は「一介の儀の身が漢中の地に相当するなら」と進んで楚に赴いた。しかし、張儀は詭弁を弄して懐王の寵姫鄭袖に取り入り、鄭袖の言葉聞き入れた懐王は張儀を許して秦に帰らせた。このとき屈平は使者として斉に行っていたが、楚に帰って懐王を諫め「どうして張儀を殺さなかったのですか」と責めた。懐王は後悔して張儀を追跡させたが、時既に遅しであった。さらにある時、秦の昭王は楚と婚姻を通じようと懐王に会見を申し入れた。懐王が出かけようとすると、屈平は「秦は信用できません。行くべきではありません」と忠告した。が、王の末子子蘭は「どうして秦の好誼を拒めようか」と行くことを勧めた。果たして懐王は秦に出向き、秦の地で世を去るのである。子蘭は屈平が自分を憎んでいると聞いて大いに怒り、屈平を江南に移した。屈平は江水の畔を彷徨っていた。そのとき、一人の漁夫が行き会うと「なぜあなたがこのような処に?」と問う。屈平は、「世を挙げて混濁しているのに、我一人が清く、衆人が皆酔うているのに、我一人が醒めているので追放されたのだ」と語った。「聖人というものは物事にこだわらず時世とともによく推移するもの。世が混濁しているのなら、どうしてその流れに従いませぬか。衆人が皆酔うているなら、どうしてあなたも酔いませぬか。あなたほどの才能を抱きながら、なぜ自ら追放されるようなことを」。「『新たに沐する者はかならず冠の塵をはたき、新たに浴する者はかならず衣の埃をはらう』。誰がその身の清浄に塵や埃を蒙るに堪えよう。むしろ長江の流れに身を投じて葬られるほうがましだ!」こうして屈平は『懐沙の賦』を作り、石を抱いて汨羅に身を投じてその幕を閉じたのである。



これが、屈平である。



子遠こと入江杉蔵は、「松下村塾四天王」と呼ばれた一人である。他の三人とは高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎。吉田栄太郎こと吉田稔麿は、1864(元治元)6月 池田屋事件で、割腹し、1864(元治元)7月 蛤御門の変で、久坂玄瑞(23歳)、入江杉蔵(25歳)は、戦死 している。



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さて高杉晋作は、1863年に騎兵隊を結成し活躍するが,翌1864年、野山獄にて80日余り獄中生活を送っている。その時に以下の古詩を詠んでいる。



君不見死為忠鬼菅相公 霊魂尚存天拝峰 又不見懐石投流楚屈平 至今人悲汨羅江 自古讒間害忠節 忠臣思君不懐躬 我亦貶謫幽囚士 思起二公涙沾胸 休恨空為讒間死 自有後世議論公
(読み下し)
君見ずや死して忠鬼となる菅相公/霊魂は尚存す天拝峰/又見ずや石を懐にして流れに投ず楚の屈平今に至って人悲しむ汨羅の江/古より讒間忠節を害す/忠臣は思を君いて躬を懐わず/我亦貶謫幽囚の士/二公を思い起こせば涙胸を沾す/恨むを休めよ空しく讒間の為に死すを/自ら後世議論の公なるあり



讒言のため、「忠臣」であるにもかかわらず不当な末路をたどった菅原道真と屈平に、晋作は自らの境遇を重ね合わせ涙を落とし、そして苦境を克服しようとした。特に評価を後世に委ねるという最後の一節が、たとえ「狂人」と呼ばれて孤立しても、時代の壁に立ち向かおうとした晋作の意志の強さを示しているが、当然、屈平のくだりは、1859年、すなわち5年前に亡くなった松陰先生の思いを同時に重ねていたと思われます。





その1 終わり











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