北方謙三著「史記 武帝紀三」完読。
武帝・劉徹の下、奴僕同然の身から大将軍へと昇りつめた衛青の活躍により、漢軍は河南の地に跋扈する匈奴を放逐する。さらに、その甥にあたる若き霍去病の猛攻で、匈奴に壊滅的な打を与えるのだった。一方、虎視眈々と反攻の期を待つ、匈奴の武将・頭屠。漢飛将軍と称えられながら、悲運に抗いきれぬ李広。英傑去りしとき、新たなる武才の輝きが増す―――。北方版『史記』、風雲の第三巻。
北方謙三著「史記 武帝紀三」完読。
武帝・劉徹の下、奴僕同然の身から大将軍へと昇りつめた衛青の活躍により、漢軍は河南の地に跋扈する匈奴を放逐する。さらに、その甥にあたる若き霍去病の猛攻で、匈奴に壊滅的な打を与えるのだった。一方、虎視眈々と反攻の期を待つ、匈奴の武将・頭屠。漢飛将軍と称えられながら、悲運に抗いきれぬ李広。英傑去りしとき、新たなる武才の輝きが増す―――。北方版『史記』、風雲の第三巻。
伍子胥は、父に向かってまっすぐに言う。「善をなすふりをして悪をなすことほど、悪いことはないとおもいます」父・伍奢は思った。「この子を教えるのは、人ではなく天だ」と。
豊かな水をたたえる長大な江水の流域で、春秋時代後期に覇権を争う、楚、呉、越。楚の人、伍子胥は堂々たる体躯で将来を嘱望される青年である。父は、王に重用され要職をつとめる。伍子胥は、呉との国境近くの邑・棠を治める兄・伍尚を助けるため船に乗り、江水を往く。強い信念をもち、父兄を尊敬する伍子胥は、地位や身分を越えてさまざまな人と出会い、歩むべき道を探していた。
「人材こそ国と家の宝だ。他国あるいは他家に取られてから、しまったと後悔しても、どうにもならぬ」
伍子胥は自らの目でみて、人材を集める術を探す。
春秋戦国時代に「目をくり抜いて城門にかけよ、呉が越に滅ぼされるのを見る」、という遺言を残したことで知られる楚の伍子胥。名将・范蠡(はんれい)の好敵手となった彼の、人脈の築き方とは――。勝負に挑む前の、人生の教訓に溢れた一冊。
塚本靑史著「孫子伝」を読む。宮城谷氏の「湖底の城」が文庫本になりましたので、その前に読みたいと思いました。
世界に名だたる兵法書といわれる『孫子』。戦国武将・武田信玄から現代の経営者・孫正義に至るまで、孫子の教えに傾倒する人物は数多い。本書は、この不朽の名作『孫子』を著した人間・孫子が孫武であるという説に立ち、その生涯を活き活きと描き出した一代記。変人・奇人といわれてもおかしくない意外性に満ちた人間像に驚愕!中国の歴史を手玉に取る腕前、大胆な歴史推理を存分に愉しめる一冊。
舞台は春秋末期(前6世紀後半)。呉楚の睨み合いが続く古代中国で、斉出身の孫武は呉へ兵法家として赴く。その間に戦いの極意を記した名著を生み出すが、前506年を最後に一切の檜舞台を伍子胥に明け渡す形で姿を消すのである。
孫武とは一体どんな男だったのか。呉の王族で仕掛け人の季札、策士・伍子胥や范蠡と、どう絡み合っていたのか。
三谷幸喜著「清須会議」読みました。
信長亡きあと、清須城を舞台に、歴史を動かす心理戦が始まった。 猪突猛進な柴田勝家、用意周到な羽柴秀吉。情と利の間で揺れる、丹羽長秀、池田恒興ら武将たち。 愛憎を抱え、陰でじっと見守る、お市、寧、松姫ら女たち。 キャスティング・ボートを握るのは誰なのか?五日間の攻防を現代語訳で綴る、笑いとドラマに満ちた傑作時代小説。
軽井沢へ向かいます。
群馬県側に鎮座されるのが「新宮」(祭神: 速玉男命)県境に鎮座されるのが「本宮」(祭神:伊邪那美命・日本武尊
長野県側に鎮座されるのが「那智宮」(祭神:事解男命)になります。当然、和歌山の熊野から勧請されております。
こちらは由緒ある、信濃国佐久郡の式内社(永倉神社)比定社です。
白根山 湯釜
直径約300m、水深約30m、水温約18℃の火口湖です。水に溶け込んでいる鉄イオンや硫黄などの影響で特定の波長の光が吸収されてこのように見えると考えられています。
感動!!
草津温泉
生島足島神社
甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城です。真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名。
ちなみに、十勇士その他は。霧隠才蔵・三好清海入道、三好伊三入道、由利鎌之助、海野六郎ですが「おもてなし武将隊」にはいないようです。
建御名方富命彦神別神社
白馬より鬼無里(キナサ)を抜けて長野へ。信濃国水内郡の式内社にして名神大社論社である「建御名方富命彦神別神社」を参拝。善光寺の東隣にあります。
拝殿は瓦葺・入母屋造。拝殿の左右に脇拝殿が付属しており、左側の脇拝殿には扁額が無かったのだが、
右側の脇拝殿には「地主大神」と記された扁額が掲げられているので中に地主大神が祀られているのかもしれない。
白馬で宿泊。ベルグハウス白馬というホテルに泊まりました。