2011年12月31日土曜日

ボーリング

現在の部署の忘年会は、ボーリング+中華で宴会。社会人になってからは25年で5回くらいしかやっていないが大学時代はかみさんとよくデートでボーリングをしていた。ストライクが出だすと止まらないのは知っている。1ゲームでスパットにボールがいかない。オープンも簡単に出る始末。終わってみれば134。何と平凡なスコア。しかし2ゲーム目に「神は舞い降りた」。1フレーム目スペア。2-5の4連続ストライク。6フレーム目8本のオープン。ここまでか?いやいや7-10の1打目まで再び4連続ストライク。終わってみれば233。当然のように優勝。i-pod頂きました。息子にあげよう。

2011年12月25日日曜日

横山三国志

北方 三国志 13巻再完読。結局、続いて横山光輝「三国志」30巻(マンガ)を読んでいる三連休でした。

iphone 4s に

Iphone4s携帯をiphone 3GSに変更して1年9ヶ月。「5」が出るまで我慢するつもりだった。しかし、やはり4Sに・・・ついつい機種変更。
オペレーティングシステムがios5にヴァージョンアップして以降のモッサリ感に耐えられなくなったのが最大の理由である。とかなんとか言いながら まあ本当は新しもの好きなだけなのだが・・・・・。
でもカメラの良さには驚いた。メモリーの喰われ方も少ない。「5」なるべく直ぐに出ないようにお願いします。




2011年12月18日日曜日

北方謙三 三国志1-13巻再読中

月初のゴルフ合宿でお小遣いを使いすぎたので、倹約のため本代をうかしたい。よって只今北方謙三の三国志 全13巻再読中。現在9巻目。北方三国志の人物像で面白いのは、なんといっても張飛。呂布・馬超もなるほどという描き方。そして孟達。こいつが鍵を握る重要人物として、またその有り様を誰よりも浮き彫りにしているところは必見だ。赤兎馬のように怒涛で読み進もう!!

今年の打ち納め

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今年の打ち納めに行って来ました。成田の南にある「イーグルレイクゴルフクラブ」です。会社の同僚とのプレーだ。今日は今年一番の寒さ、スタートも7:22と早め。予想通りグリーンは「ホワイト」。霜が降りてカチカチ。その上、此のコースはトリッキーで、狭いときている。しかし、3番ミドルでバーディー。でも後が続かない。しかし前半はなんとか45と凌いだ。後半は2組まち3組まちのホールが軒並み。名前通り池絡みのホールが渋滞を巻き起こしている。こういう時はホントに駄目なのだ。忍耐がきかない。やはり切れた。OB連発。結局48も叩き、あえなく今年最後は93で終わる。来年は、少し練習もしようかと思う此の頃である。




2011年12月10日土曜日

謎手本忠臣蔵 上・中・下

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加藤廣著「謎手本忠臣蔵 上中下巻」完読。この時期は、やっぱり忠臣蔵か。
[E:book]その朝、勅使の登城はなぜ早められたのか? 将軍側近・柳沢吉保の胸中に兆した、微かな疑念。背景に浮上したのは、朝廷との確執と、喪われた密書。動機を語らず切腹した内匠頭の真意とは――。これは幕府と朝廷の情報戦争だ! 元禄赤穂事件の謎を解き明かす国民文学・忠臣蔵の決定版。

綱吉と柳沢と桂昌院従一位叙位と忠臣蔵事件。事件の構図をたんなる狂気や浅野の短慮にのみ求めないところ、当時の為政者も世論を気にし、また利用してきたところは、まあ面白い。

しかし、忠臣蔵は謎は謎でいいのではないかという気がする。そこに男の美学があるだけで十分に日本人の心をうつ。そんな気がする。

忠臣蔵は、小学校4年の時に、TBSで火曜の9時から放映された「大忠臣蔵」を夢中で欠かさず見たのが最初だ。受験で東京へ来た時も、一人で泉岳寺へお参りにいったくらい好きだった。当時は四十七士も全員覚えていた。この「大忠臣蔵」キャストがすごかった。今思えば感動モノです。こちらのリンクから是非見てください。→キャスト
音楽も富田勲が担当。すばらしかった。これを超える忠臣蔵は二度とないだろうと思う。







2011年12月6日火曜日

宮城谷 三国志7巻

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文庫本 宮城谷昌光著 「三国志7」。1年ぶりの発刊。随分と待っていたのだ。そして驚くことに今後も1年に1冊のペースだという。あまりのことに肌が粟だった。(北方風いいまわし)しばらく読まないと心に決めていた。でもやはり買ってしまう。そして読み始めたら結局1日で読んでしまう自分がいた。

[E:book]荊州において劉備の勢力が膨張している。孫権は本気で荊州を劉備に任せたのであろうか。北方にいる曹操の目には、両者は協調しているように映る。そして西方には馬超と韓遂がー熾烈な戦いを進める初老の曹操にとっていまや蔵月さえも障害になりつつある。建安二十一年、魏王となった曹操は、後継を誰にするか迷いの中にいた。・・・

劉備の蜀への侵攻。曹操の西涼の併呑などが描かれています。やはり細かな人物の外伝を丁寧に拾っていて、とてもおもしろいです。




2011年12月5日月曜日

親鸞 上・下

12五木寛之著「親鸞 上・下」を読む。
[E:book]混迷と激動の時代を疾走した巨人。その苦悩は、今の私たちと同じ悩みであり、その決断は現代の闇を貫く。数々の国民文学を生み出した著者が描く渾身の長編小説!

両親を亡くし叔父の家に身を寄せていた幼少時代から越後に流罪になるまでの約 20 年間を描く。親鸞をして「たとえ地獄に行かなければならないとしても信じ通す」とまで言わしめた法然上人と出会い、生涯の伴侶となる恵信尼と出会い、そのなかで、如何に自分の信じる道を歩んで行こうとするかが、ハッキリとわかる小説であった。

これは、たぶん続編がありそうです。




豪雨と烈風にて

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この土日は、前々より楽しみにしていた、ゴルフ合宿。会社の元上司・先輩との和気藹々の時間を過ごした。舞台は、那須塩原にある「西那須野&ホウライ」の名門コース。がしかし、とうとう晴れ男を返上しなくてはならない。土曜日は、土砂降りの雨。寒さに凍えながら、ただホールをこなすだけのつらい一日となった。

楽しみは、夜の夕食とお酒。ビール・日本酒・焼酎と5時半から3時間の席で大いに盛り上がった。隣接するコテージに泊まり、温泉もありで、最高だ。明日は晴れるそうなので巻き返しを誓った。

しかし日曜日はとんでもない環境でした。烈風とはこのような風を呼ぶのだろう。那須高原からの冷たい風は風速20m以上で常時吹き荒れた。ボールは、10-20mも流され、池や林への大騒ぎ。全くゴルフにならなかった。

真の実力のなさを思う存分味合わされた2日間であった。

しかし、その中でメンバーであるS顧問、両日とも80台。これが本当の実力者だ。素晴らしいの一言です。

それにしても気の置けない先輩たちとのゴルフは本当に楽しみである。また、近いうちに是非参加したい。

さて、今日朝、ホウライカントリーにて朝食中に窓からコースと虹が見えました。
思わずiphoneでぱちり。


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両コースは共に難コースでありながら、一つ一つのコースが美しく、趣があり、すばらしいゴルフ場でした。また是非、挑戦したいです。


2011年11月28日月曜日

楯縫神社 ニ座

ゴルフの時間が遅いので、早めに出発して、延喜式内社である茨城 美浦にある「楯縫神社」神社を参拝。
まずは、木原にある「楯縫神社」へ。こちらが式内社といしては有力みたいだ。
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一の鳥居を過ぎると、200mくらいの参道が続く。
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ちょうど中間くらいに二の鳥居がある。
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境内は、紅葉により静謐感が漂っている。
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ご祭神は、「普津主命」である。推古天皇十六年(608)の創祀。普津主命が兜楯を脱いでこの地に残された故事にちなんで楯脱ぎ(楯縫)の社号となったという。神紋は「三つ巴」のようだ。
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本殿は、一間社流造。古びた神社であるが、静かで凛としたところが気に入った。
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次に信太にある「楯縫神社」。
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鳥居の横にある杉の木は見事だ。ご祭神は「経津主命」。木原とは字が違うが同じ神である。
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こちらも鳥居をくぐると100mほど参道が続く。
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本殿は、同じく流造。

さて、楯縫神社は、忌部系氏族「楯縫連」の祖神とされる彦狭知命という説がある。千葉・茨城は元は出雲系であることから、こちらの説が正しいような気がする。




ザ・インペリアルカントリークラブ

今日は、稲敷にある「ザ・インペリアルカントリークラブ」にてプレー。ほとんどアップダウンもなく平坦でフェアウェイも広く快適なコースだ。天候も快晴。気温も冬とは思えない暖かさ。楽しくプレーが出来た。今日は、アイアンは全く当たらずで不調。いつものようにアプローチとパターでしのぐ展開となった。前半は42と崩れる要素がなかったが、後半は肩がもたず、47で何とか80台でおさまる。五十肩は18ホールはやはりもたない。来週の西那須野・ホウライの連チャンが今日から心配だ。



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2011年11月26日土曜日

真剣

Photo海道龍一朗著「真剣」読破。

[E:book]戦国の世を生きながら、男は如何にして「転(まろばし)」の極意へ至ったのか──。上州の小領主・上泉家に生まれた信綱は、愛洲移香斎ら達人を師に、兵法に天稟をみせる。だが、一武将としては戦乱に敗れ、武田信玄にもその器量を認められながら、廻国修行の道をこころざす。宝蔵院の槍、柳生の剣との邂逅は、この男に何をもたらすのか。兵法の極みを目指す男たちを描く圧巻の歴史時代大巨編。

この時代の関東の入り組んだ勢力地図を巧みに整理しつつ、迫力溢れる稽古、立合い、戦闘などの場面も盛り込んでいる。また、無刀の境地「真に剣を極めれば、人は無用に人を殺めなくてすむのではないか。身共はそうありたいと願っいてる」この場面が忘れられない。是非ご一読を。




2011年11月24日木曜日

筑波山神社

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筑波山神社を紅葉狩りを兼ねて参拝してきました。6:30出発で、8:20に到着。
一の鳥居の右横へ進む駐車場に車を止めて、まずは境内へ向かいます。
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二の鳥居を過ぎると、まずは御神橋があります。でも祭りの時以外は渡れません。
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正面には立派な随神門が見えてきました。
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そして、大きな鈴をもつ拝殿。筑波山神社は、ここには拝殿しかありません。ここでご神体である「筑波山」を拝みます。では、本殿は?筑波山は男体山(871m)と女体山(877m)の2つの峰をもちそこに、それぞれご本殿があるんです。山容が双峰相並ぶ為、二神-男体山に伊弉諾尊(イザナギノミコト)、女体山に伊弉冉命(イザナミノミコト)が祀られているわけです。筑波山は延喜式内社にして名神大社(男神)小社(女神)です。
神紋は「丸に三つ葉葵」のようです。
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随神門横の銀杏がこの季節は美しい。
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境内も紅葉で趣があります。
さて、ここから山頂にある本殿へ向かいます。といっても登りは、ケーブルカーで8分。楽をしました。
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ケーブルカー登り口もすでにかなりの標高で、霞ヶ浦がみえました。
↓の写真 中央右に光って見えるのが「霞ヶ浦」です
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まずは、男体山本殿へ。15分ほどですが、かなりの岩場を乗り越えなくてはいけません。
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一間社流造のようです。堅魚木は3本の奇数。千木も垂直(外削ぎ)。男神の本殿です。
そして女体山本殿へ。
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こちらの堅魚木は2本(偶数)。千木は水平(内削ぎ)。女神の本殿です。
山頂からは、関東平野が360度一望できます。今日は天気もよく最高でした。
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女体山からみる男体山も美しい。
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さてここからが大変でした。「下りは楽だから歩いて降りよう」大間違いでした。延々と2700mの岩場での下りの下山。膝が・・・・ふだん歩き慣れない「かみさん」には酷でした。

再び、筑波山神社境内へ到着。まだ12時。水戸勤務時代によく食べた「けんちんうどん」をいただきました。
明日は私の51回目の誕生日ですから、50歳最後の行楽でした。

��心得をひとつ
お昼には、筑波山へ向かう車はかなりの渋滞でした。駐車するまでに、麓から1.5~2時間はかかりそうです。おでかけは早めに!「早起きは三文の得」です。




2011年11月20日日曜日

風の王国

Photo 五木寛之著「親鸞」を買うつもりで書店に行ったのだが、裏表紙に見えた「ニ上山」の言葉に釣られ、先に「風の王国」を買ってしまった。

[E:book]闇にねむる仁徳陵へ密やかに寄りつどう異形の遍路たち。そして、霧にけむる二上山をはやてのように駆けぬける謎の女…。脈々と世を忍びつづけた風の一族は、何ゆえに姿を現したのか?メルセデス300GDを駆って、出生にまつわる謎を追う速見卓の前に、暴かれていく現代国家の暗部。彼が行く手に視るものは異族の幻影か、禁断の神話か…。現代の語り部が放つ戦慄のロマン。

いわゆる山の民「山窩」の物語。山の民、山家、世間師などと呼ばれた人々が古代から連綿とつながる歴史を生きてきた。網野善彦や柳田国男が解説している山の民、もしくはサンカが古代より権力者たちに虐げられてきた、という歴史の裏側を知る上で貴重な一冊であろう。




太平記鬼伝 児島高徳

Photo火坂雅志著「太平記鬼伝 児島高徳」を読む。

[E:book]五流山伏・児島高徳は、隠岐島に流された後醍醐天皇を脱出させることに成功する。高徳は、立川流の文観上人から、“螢惑星”という世に風雲を巻き起こす相があるといわれ、それは足利尊氏にもあるといわれた。  やがて後醍醐天皇は尊氏に追われ、南朝を起こす。高徳は、後醍醐天皇への信義を貫き、度重なる誘いにも動ぜず、尊氏と戦い続けた。北畠親房、楠木正成らの名将が活躍した南北朝時代の、知られざる人物の苛烈な生涯を描く。

話は、実際の高徳の太平記での有名な話の後から始まる。児島高徳が世上有名な逸話は、後醍醐天皇が隠岐へ流される途中、山陽道の船坂峠で救おうとしたが失敗、院ノ庄の美作守護所の桜の木に、

 天莫空勾践(天勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすることなかれ)
 時非無范蠡(時に范蠡(はんれい)無きにしもあらず)

と、幽閉された越王勾践を救い出したその范蠡の故事を刻み、隠岐へ流される後醍醐天皇を救出せんことを誓ったという場面だ。残念。

しかし、利によらず最後まで信義を貫く姿は恰好良いものです。このようなあまり知られていない人物にスポットライトを当てるとはさすがです。

2011年11月13日日曜日

剣豪将軍 義輝 上・中・下

I_2011111219200990宮本昌孝著「剣豪将軍 義輝」読破。待ちに待った文庫本化で一気に読む。塚原卜伝から一の太刀を授けられた剣豪であり、足利十三代将軍である義輝を中心に戦国の世へと突入する時代の名将たちを様々な形で織りまぜながら、物語は進行してゆく。やあ-これは本当におもしろい本でした。忍者や暴れ者の元僧兵など、多彩な登場人物が主人公義輝を補佐し、まるで冒険活劇風に進んでゆくが、その中で義輝の天下人としてあるべき姿を十分に見せつけている。松永弾正の憎たらしさも十分に描いて楽しい。悲劇の将軍義輝の最後がわかっているだけに、最後の50ページぐらいは、まだ終わって欲しくないと思いながら読んでいる自分がいました。最高傑作です。
[E:book]応仁の乱後、足利将軍の権威は失墜、下克上の乱世を招いていた。天文十五年(1546年)、十一歳の菊幢丸は元服して名を義藤(後の義輝)と改め、父義晴から将軍職を譲られた。しかし三好長慶の反攻にあってしまう。近江に逃れる途上、旅の武芸者の手練の技を見た義藤は開眼し、峻烈な武術稽古を始める。風雲急を告げる戦乱の巷を舞台に、剣士として生きようとした義輝の一生を颯爽と描いた歴史巨編




2011年11月6日日曜日

名将 佐竹義宣

Photo_3南原幹雄著「名将 佐竹義宣」読了。
[E:book]北の伊達、南の北条とつばぜり合いを演じてきた弱小戦国大名・佐竹義宣は、豊臣秀吉の小田原攻めに馳せ参じ、将来を秀吉に賭けた。石田三成の支持のもと、一躍常陸の大大名にのし上がった義宣に、隣国を領した実力者・徳川家康は挟撃を警戒し、しきりに誼みを通じようと接近を図る。豊臣政権の存続こそが佐竹の安泰と見る義宣は、三成、上杉景勝の執政・直江兼続と盟約を結ぶが―。戦国の下剋上に耐え、徳川260年を生き抜き、戊辰戦争さえも東北で唯一新政府軍についた源氏名門の生き残り戦略。

佐竹は最後まで反徳川を貫き、しかも江戸時代を生き残った。






天皇の忍者

Photo_2南原幹雄著「天皇の忍者(しのび)」を読む。
[E:book]後醍醐天皇以降、代々朝廷に仕える八瀬童子と呼ばれる忍者集団がいた。
八瀬童子は朝廷に仕える事を誇りとし、また八瀬童子の住む京北部の八瀬村は免税を許されていたが、この役目を狙う集団が先に存在している。
京北部の静原村に住む静原冠者と呼ばれる忍者集団であり、彼らは後白河法皇以前までは朝廷の忍者として活躍していた。
静原冠者を束ねる竜王坊と呼ばれる若者は、後醍醐天皇が八瀬童子へ与えた朝廷の忍者だという綸旨を奪い、再び静原冠者が朝廷の忍者に戻ろうと計画する。
綸旨を巡り、静原冠者と八瀬童子による争奪戦が繰り広げられていた頃、大御所徳川秀忠率いる江戸幕府は、朝廷を武士の配下へ置こうと数々の難題を突きつけるのであった。
本来は朝廷を守るはずの八瀬童子は欲に駆られ幕府配下になり、竜王坊率いる静原冠者は朝廷を守るべく幕府と戦う決意を固めると、幕府側に付いた八瀬童子との戦いが開始される。

龍慶一郎の「炎の帝」と時を同じくする時代小説。「炎・・」が素晴らしかっただけに、これは駄作かな。




山彦ハヤテ

Photo米村圭伍著「山彦ハヤテ」読了。
[E:book]ぼろの半纏にぼさぼさ頭、野を駆けたくましく生きる山童のハヤテは、入山禁止の天狗山で行き倒れた訳ありげな青年を救った。この人物、実は陸奥国折笠藩五万石を継ぐ藩主・三代川正春。いま、その後継をめぐって城内はお家騒動の真っ最中だという。ハヤテと、一撃必殺の牙閃かす狼の尾ナシは、親友となった若君“マサ”のため、陰謀うずまく小藩の危機に挑む。新感覚時代小説誕生!






映画 三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船

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久しぶりに映画を観てきました。一人で。子供の頃から好きな「三銃士」は見逃せません。3Dもありましたが通常上映にて鑑賞です。
[E:movie]。パリにやってきた気が強く無鉄砲な青年ダルタニアンは成り行きで三銃士の仲間となり、国王の側近の裏切りによって狙われた王妃の首飾りを取り戻すためイギリスへ。しかし、そんな彼らの前に事件のカギを握るバッキンガム公爵と正体不明のナゾの美女ミレディが立ちはだかる。主人公ダルタニアン役に「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」のローガン・ラーマン。バッキンガム公爵を演じるオーランド・ブルームが自身初の悪役に挑む。
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超娯楽大作でした。侍女コンスタンス役の子が可愛かったです。
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2011年11月4日金曜日

秩父神社

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朝5時出発で、「秩父神社」を参拝です。、秩父地方の総社で、式内社・国幣小社・別表神社・知知夫国新一の宮。崇神天皇の時代に、初代の知知夫国造である知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、祖神の八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったのが始まりとされている。八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)、天之御中主神を主祭神とし、昭和天皇の弟である秩父宮雍仁親王を合祀している。
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一の鳥居をくぐり下境内を歩いてゆくと、少し高い位置に神門がある。そこからが本境内となるのだろう。
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権現造りの拝殿・本殿は、様々な彫刻が施されているのが特徴です。
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拝殿正面左に「子宝 子育ての虎」。左甚五郎作
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本殿の右には、「つなぎの龍」。左甚五郎作
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本殿の後方に、「北辰の梟」。
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本殿左には、「お元気三猿」。
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神紋は「葵」紋のようです。