国玉神社を後にして、すぐ近くに「島広山・石井営所跡」があります。石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。
石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれています。
右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。
そして、将門公所縁の延命寺です。
延命寺は医王山金剛院と称し、真言宗豊山派に属している古刹で、別称として「島の薬師」と呼び親しまれてきました。
山門は四脚門の形式。室町時代の建築様式を遺した茅葺切妻造り、近郊に比類のない造形美を示し、大旦那であった相馬氏の将門に寄せる思いに誇りが感じられます。
山門を抜けて石造太鼓橋を渡ると、その先に寝殿造りを模した朱塗りの薬師堂があります。この堂内の厨子殿に奉安する薬師如来像は、行基作と言われている、将門の守り本尊と称する持護仏で、将門の死後に祀られたものと伝えられています。
続いて「石井の井戸」へ。
将門と石井の井戸との関わりについては、「国王神社縁起演書」に記されています。
『将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。
将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。
久方の光の末の景うつる
岩井を守る翁なりけり
と唱じると姿を消してしまった。
将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。』と。