2007年2月11日日曜日

留魂録 その1



余去来巳来心蹟百変、挙げて数へ難し。就中、趙の貫高を希(コイネガ)ひ、楚の屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙多士一貫高。荊楚深憂只屈平」といふも此の事なり。



(訳)



私は、昨年来実に様々な思いが移りかわって、それは数え切れないほどである。なかでも特に私がかくありたいと願ったのは、趙の貫高であり、楚の屈平であることは諸君のすでに知るところである。だから、入江杉蔵(子遠)は、私が江戸送りになると知って、「燕や趙にすぐれた士は多いが貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を憂う人は屈平だけであった。」という送別の詩を贈ってくれたのである。



**********



まず登場する貫高は、趙の国の丞相である。王は、張敖(あの張耳の子)。漢の高祖(いわゆる劉邦)が趙王を侮辱したのを怒り、高祖暗殺を考える。しかし趙王 張敖は自分の指を噛んで血を出し、二心のないことを誓い「おまえたちは何ということをいうのか。先君(張耳)はいったん国を失われた。しかし高祖のおかげで国を回復することができたのだ。 その恩沢はわれら子孫にまで及んでいる。どうか二度と、このことを口にしてくれるな」と言う。しかし貫高と趙午ら10余人は「我らの王は温厚な長者であり、徳義に背く人ではない。が、我らも義として、趙王が辱められたのを黙視するには忍びない。 いま高祖を殺すことが、どうして王の徳をけがすことになろう。事が成就すれば功を王に帰し、失敗すれば、我らが罪を受けよう」と言った。B.C.199 高祖は東垣から帰る途中、趙を通った。貫高らは柏人の宿舎の壁の中に人を置き、待ち伏せて高祖を殺そうとした。高祖は柏人に宿泊しようとして 「県名は何というか」と聞くと「柏人県と申します」との答えである。高祖は「柏人とは、人に迫ることだ」として不吉に思い、宿泊しないで去ったので、 貫高の計画は失敗した。B.C.198 密告があり貫高らの陰謀はばれる。そこで高祖は張敖はじめ貫高ら一味を一斉に逮捕した。同志の者はみな自害したが、貫高だけは 「王は少しも陰謀に加わらないのにみな死んで、いったい誰が王の無実を証明するのか」と言い、囚人車に乗せられて長安に送られ、 張敖の罪が裁かれることになる。貫高は、鞭打たれること数千、鉄針をつきさされたりして、もはや打つべき皮膚がなくなったが「ただ自らの仲間だけで謀ったことで、王は何も知らないのだ」と陳述した。 獄官が貫高を取り調べた顛末を言上すると、高祖は「なかなかの壮士だ。誰か彼を知っている者で、私情で聞き出すようにせよ」と言った。 中大夫の泄公が 「わたしは彼と同邑で、旧知の間柄であります。もともと名を立て義を守って、人に凌辱されず、然諾を重んずる人物であります」と言ったので、高祖は泄公に貫高を訪問させた。泄公は貫高の苦痛をいたわり、平生の心おきない口調で語り合った。貫高は、つぶさに事の起こった原因と、王がこれに関知しなかった事情を述べた。泄公は詳細を報告し、高祖はついに張敖を赦免した。そして高祖は貫高の人となりが然諾を重んずるのを賢明とし、泄公をやって貫高をも赦すと伝えさせた。貫高は喜んで「わが王は確かに釈放されましたか」と言った。泄公は「確かに。さらに上にはあなたの振舞いを多とされ、あなたをも赦されたのです」と付け加えた。 すると貫高は「わたしが死のうとしなかったのは、王の無実を明らかにしたい一念からです。いま王が釈放されたうえは、わたしの責任はすでに果たされ、死んでも恨みはありません。それに人臣として簒殺の汚名を蒙ったからには、何の面目があって再び上に仕えられましょう。どうして我と我が心に恥じないでおられましょう」と言い、 仰いで頚動脈を切り、ついに自殺した。



これが貫高である。



次に登場する屈平は、屈原とも言われている。楚の憂国の詩人である。



あるとき、屈平の才能を嫉んだ上官大夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言する。懐王は怒って屈平を遠ざけた。屈平は王が臣下の言葉を聞かず讒言阿諛の徒が聡明を蔽い、邪説曲論が国事を阻害して方正の士が受け入れられぬのを無念に重い、憂愁幽思して『離騒の賦』一篇を作った。またある時、楚と交戦中であった秦が和睦を申し出てきた。楚王(懐王)は「土地は望まぬ。願わくは張儀を得たい」と張儀の身柄を要求した。張儀は「一介の儀の身が漢中の地に相当するなら」と進んで楚に赴いた。しかし、張儀は詭弁を弄して懐王の寵姫鄭袖に取り入り、鄭袖の言葉聞き入れた懐王は張儀を許して秦に帰らせた。このとき屈平は使者として斉に行っていたが、楚に帰って懐王を諫め「どうして張儀を殺さなかったのですか」と責めた。懐王は後悔して張儀を追跡させたが、時既に遅しであった。さらにある時、秦の昭王は楚と婚姻を通じようと懐王に会見を申し入れた。懐王が出かけようとすると、屈平は「秦は信用できません。行くべきではありません」と忠告した。が、王の末子子蘭は「どうして秦の好誼を拒めようか」と行くことを勧めた。果たして懐王は秦に出向き、秦の地で世を去るのである。子蘭は屈平が自分を憎んでいると聞いて大いに怒り、屈平を江南に移した。屈平は江水の畔を彷徨っていた。そのとき、一人の漁夫が行き会うと「なぜあなたがこのような処に?」と問う。屈平は、「世を挙げて混濁しているのに、我一人が清く、衆人が皆酔うているのに、我一人が醒めているので追放されたのだ」と語った。「聖人というものは物事にこだわらず時世とともによく推移するもの。世が混濁しているのなら、どうしてその流れに従いませぬか。衆人が皆酔うているなら、どうしてあなたも酔いませぬか。あなたほどの才能を抱きながら、なぜ自ら追放されるようなことを」。「『新たに沐する者はかならず冠の塵をはたき、新たに浴する者はかならず衣の埃をはらう』。誰がその身の清浄に塵や埃を蒙るに堪えよう。むしろ長江の流れに身を投じて葬られるほうがましだ!」こうして屈平は『懐沙の賦』を作り、石を抱いて汨羅に身を投じてその幕を閉じたのである。



これが、屈平である。



子遠こと入江杉蔵は、「松下村塾四天王」と呼ばれた一人である。他の三人とは高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎。吉田栄太郎こと吉田稔麿は、1864(元治元)6月 池田屋事件で、割腹し、1864(元治元)7月 蛤御門の変で、久坂玄瑞(23歳)、入江杉蔵(25歳)は、戦死 している。



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さて高杉晋作は、1863年に騎兵隊を結成し活躍するが,翌1864年、野山獄にて80日余り獄中生活を送っている。その時に以下の古詩を詠んでいる。



君不見死為忠鬼菅相公 霊魂尚存天拝峰 又不見懐石投流楚屈平 至今人悲汨羅江 自古讒間害忠節 忠臣思君不懐躬 我亦貶謫幽囚士 思起二公涙沾胸 休恨空為讒間死 自有後世議論公
(読み下し)
君見ずや死して忠鬼となる菅相公/霊魂は尚存す天拝峰/又見ずや石を懐にして流れに投ず楚の屈平今に至って人悲しむ汨羅の江/古より讒間忠節を害す/忠臣は思を君いて躬を懐わず/我亦貶謫幽囚の士/二公を思い起こせば涙胸を沾す/恨むを休めよ空しく讒間の為に死すを/自ら後世議論の公なるあり



讒言のため、「忠臣」であるにもかかわらず不当な末路をたどった菅原道真と屈平に、晋作は自らの境遇を重ね合わせ涙を落とし、そして苦境を克服しようとした。特に評価を後世に委ねるという最後の一節が、たとえ「狂人」と呼ばれて孤立しても、時代の壁に立ち向かおうとした晋作の意志の強さを示しているが、当然、屈平のくだりは、1859年、すなわち5年前に亡くなった松陰先生の思いを同時に重ねていたと思われます。





その1 終わり











反省

我がブログへの検索ワードを見ると、「留魂録」「モーツァルト」この2つが圧倒的である。せっかくの訪問に対し、やはり「留魂録」について少しずつ書いていこうかなと思うこの頃である。



春の息吹

 先週・今週と春に備えて、庭の手入れに精を出している。水仙・クロッカスの芽が出始めておDscf0884Dscf0885り春の息吹を感じます。今年も、「日向みずき」から始まり「山吹」「馬酔木」「はなずおう」ときて、 クライマックスは「薔薇」だ。いつもより暖かいの少し早めに春の花々を楽しむことが出来るかもと期待している。さて4月から、次男:こうちゃんも中学生。スッタモンダあったが、ろくに勉強もせずに国立の附属中学へ合格したのでまずはひと安心。しかしまた、携帯購入がまっている。これで家族全員5台目となる。家計に占める食費を「エンゲル係数」、教育費を「エンジェル係数」と呼んでいるが、「モバイル係数」も認知され、いよいよ統計をとるべきではなかろうか と思う今日この頃である。



2007年2月10日土曜日

ノクターン

ノクターンといえば、ショパン?いえいえボロディンを忘れては困ります。今日は早くにリビングで爆睡したためこんな時間(2:30)に目が冴えてしまってます。そこで夜想曲を聴きながら・・・。ロシア五人組の一人ボロディンは、化学者でもあったとか。弦楽四重奏曲第2番ニ長調 第Ⅲ楽章 Andante 通称「ノクターン」はクラシックファンならずとも、ひょっとしたら一度は誰もが耳にしたことがあるかも。CMや美しい風景のバックで流すには最高の一曲だからです。癒されますねえ。それでは、ボロディン四重奏団の演奏でお聴き下さい。borodin_2(クリック)。よかったらコメントお願いします。 それでは私はもう一眠り。



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2007年2月5日月曜日

文天祥

Ly1610_4_590 かの高杉晋作が、長府功山寺でわずか80人余で決起した直後、白石正一郎の末弟・大庭伝七にあてて手紙を書いたが、その最後につぎの詩がある。 





売国囚君無不至 捨生取義是斯辰 



天祥高節成功略 欲学二人作一人
国を売り君を囚(とら)え至らざるなし 生を捨て義を取るはこれ        この辰(あした)
天祥の高節成功の略 二人を学んで一人と作(な)らんと欲す



(訳)国を売り主君をとらえて俗論派は暴虐をきわめている。命を捨てて義をつくすのはまさにこのときである。文天祥(南宋の忠臣)の高節と鄭成功(清に抗した明の謀臣)の策略と、2人に学んで1人でなさねばならぬ。



あえて主君の城に弓を引く、晋作のなみなみならぬ決意が表われている。



さて、この漢詩に登場する「文天祥」は、隠れたる中国の英雄である。それも愛国の士であるから、さらにめずらしい。南宋の忠臣である。南宋の忠臣といえば岳飛をおいてないと思うが、文天祥も負けず劣らず中国では人気があるらしい。元と戦うのだがこれといって華々しい活躍をしているわけではない。しかし捕獲され死ぬまで獄中にある時、山に追い詰められた宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断る。この詩は、「人生、古(いにしえ)より誰か死無からん。丹心(たんしん※まごころ)を留取して、汗青(かんせい※史書)を照らさん」で終っている。「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでフビライは何度も勧誘するが、頑として受け入れない。この時、有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだ。文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖も広瀬武夫もそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。



『正気の歌』 文天祥



天地正気有り 雑然として 流形を賦(う)く 下りては則ち河嶽となり  上りては則ち 日星となる 人においては 浩然と曰い 沛乎として 蒼冥に塞(み)つ  皇路 清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く 時窮すれば 節即ち見れ一一 丹青に垂る

斉に在りては 太史の簡 晋に在りては 董狐の筆(ひつ)      秦に在りては 張良の椎(つい) 漢に在りては 蘇武の節



厳将軍の頭と為り 稽侍中の血と為る 張雎陽の歯と為り 顔常山の舌と為る
或いは遼東の帽と為り 清操 氷雪よりもはげし 或いは出師の表と為り  鬼神 壮烈に泣く 或いは江を渡る楫と為り 慷慨 胡羯(こかつ)を呑む 或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎(ぎゃくじゅ)頭破れ裂く



この気の旁薄する所 凛烈として 万古に存す その日月を貫くにあたっては 生死 いずくんぞ論ずるに足らん 地維は頼って以て立ち 天柱は頼って以て尊し
三綱 実に命に係り 道義 之が根と為る 嗟 予(われ)陽九に遭い
隷や 実に力めず 楚囚 その冠を纓し 伝車 窮北に送らる
鼎獲 甘きこと飴の如きも 之を求めて 得べからず 陰房 鬼火闃(きかげき)として
春院 天の黒きに閉ざさる 牛驥 一そうを同じうし 鶏棲に鳳凰食す
一朝霧露を蒙らば 分として溝中の瘠と作らん 此の如くして寒暑を再びす
百れい 自ら辟易す 嗟(かな)しい哉(かな) 沮汝の場の 我が安楽国と為る
豈に 他の繆巧あらんや 陰陽も賊なう能わず



顧みれば 此の耿耿として在り 仰いで 浮雲の白きをみる
悠悠として我が心悲しむ 蒼天 なんぞ極まりあらん 哲人 日にすでに遠く
典刑 夙昔に在り 風簷(ふうえん)書を展べて読めば 古道 顔色を照らす

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(訳)



この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。



例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。
君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。
ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。



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自ら正気を貫き通した文天祥は3年の幽囚の後ついに殺された。



享年47歳。松陰先生は、これに強い影響を受けているが、晋作も同様であろう。



こうして幕末回天は動いてゆく。





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2007年2月4日日曜日

ローディー~モーツァルトを語る 第9弾

Lodi_piazza_della_vittoria 第九弾は、モーツァルト14歳の作品「弦楽四重奏曲第1番 ト長調 K.80 {ローディー}」。モーツァルトは、13歳の時に始めてのイタリア旅行に出かけている。1969年12月13日から1971年3月28日までの1年4ヶ月もの旅行だ。その旅行でミラノからボロ-ニャに向かう途中「ローディー」という町で書かれたとされるのがこの作品だ。ローディーは、イタリアのロンバルディア州の県都で現在は人口4万強の小さな町である。最初は、第3楽章まで出来ていて18歳の時最終楽章のロンドを書き加えている。第1楽章のアダージョの透き通るメロディーは美しい。そしてこの曲は、モーツァルト独特の所謂、モーツァルト音型なるものが様々に登場する。「あっこの音!」ってな感じで。それでいて何故か聴いていてホッとする曲だ。14歳でね~。天才モーツァルトの将来を予見する1曲ではないだろうか。この曲の構成は極めて単純なためハーモニーは重要な要素です。それでは、透明で明るい音色の今はなきイタリア弦楽四重奏団でお聴きください。K.80.mp3 (クリック)。よかったらコメントもお願いします。



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2007年2月3日土曜日

里仁篇

君子欲訥於言而敏於行。



(子曰く)「君子はにして、行いならんと欲す」と。



かくあるべきかな。





周公旦

Photo_6 酒見賢一「周公旦」を読んだ。このところ、酒見ものを漁ってしまっている。「陋巷にあり」が自分の肝にぴったりハマってしまった関係だろう。やはりこの本は抑えておきたい。孔子が生涯憧れ続け夢にまで見続けた周王朝の至高の聖人である。かの太公望と並び称されるであろうか。周代の儀式や儀礼について書かれた「周礼」「儀礼」は彼の著とされる。本書は、殷を滅ぼしたといえ西域の弱体である周を一大国家へ導く周公旦の「礼」の力とは如何なるものか?そこに焦点をあてる。周公旦は、偉大なる政治家か、それとも巫師(シャーマン)か。何故、彼は亡命先を楚に選んだのか、その謎に迫ります。 非常に短い作品だが、封神演義での文官のイメージでさして活躍もしていない周公旦の真の怖さを表現した面白い作品だった。



2007年2月2日金曜日

アンダンテ カンタービレ

最近、TV・漫画「のだめカンタービレ」のおかげでクラシックブームだという。秋川雅史の「千の風にのって」が紅白出場でオリコン1位になったりもしている。それにしても確かにカンタービレという言葉が有名なった。さて私にとってカンタービレといえば、やはりチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11の第二楽章~アンダンテ・カンタービレということになろうか。1876年12月、モスクワにきた文豪トルストイに敬意を表して、ニコライ・ルービンシテインは特別の音楽会を催した。この時「アンダンテ・カンタービレ」が演奏され、チャイコフスキーの隣に座っていたトルストイが感動のあまり、この曲を聴きながら涙を流しはじめたというエピソードは有名である。妹アレクサンドラの領地ウクライナのカメンカで職人がを歌っていた「ワーニャは長椅子に座って、コップにラム酒を満たす、満たしもやらずもエカチェリーナのことを思う」という歌詞の民謡をもとにしているらしいが、それにしても美しいメロディーである。どこまでも広がる大地を思い浮かべながら聴くといい。心を落ち着けたい時、心を休めたい時、ぜひどうぞ。それでは、andante_cantabile(クリック)をお聴きください。演奏はエマーソン四重奏団です。 できたらコメントもお願いします。



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2007年1月29日月曜日

ドゥーブルフロマージュ

仕事で札幌へ月に一度は出かける。我が家で評判なお土産は、LeTAOの「ドゥーブルフロマージュ」というチーズケーキだ。とてもまろやかな食感で、濃厚なのに口の中で素早くとろけてしまう。説明書きによると、ベイクドのクリームチーズとイタリア産マスカルポーネのレアチーズが二層にPhoto_1 なっているらしい。そりゃあそうだ。「ドゥーブルフロマージュ」とはフランス語で2つのチーズという意味だよ。新千歳空港でも売っている。「ルタオ」は小樽にある洋菓子店。察しのいい人にはわかるだろう。「オタル」のさかさま言葉だ。そういえば、サッカーチーム「札幌コンサドーレ」も{ドサンコ}のさかさま言葉が名前の由来だったけ。彦麻呂風だと「これはまさに贅沢なチーズの二重奏や」となる。お試しあれ!!



2007年1月28日日曜日

オールドオーチャードゴルフクラブ

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久しぶりに水戸時代のM原君とI氏とゴルフをやった。舞台は、茨城町のオールドオーチャードゴルフ倶楽部。いつのまにかパブリックになっていたが、変わらず美しいゴルフ場であった。何度か以前にも廻ったことがあるのだが、相変わらずグリーンは速く難しい。クラブハウスも超豪華。バブル時代の名残が。でもこれくらいの高級感はGoodです。距離はあまりありませんが、フェアウェイのアンジュレーションは効いています。今日も、ドライバーは絶好調。260yショットが何度かあった。ERCⅢの効果は絶大だ。しかしアイアンは全く駄目。いつもの左へ引っ掛ける悪い癖が最後まで治せなかった。スコアは44・46の90で、80台に一歩届かず。無念!!さてI氏は、メタメタの115。最後まで精彩を欠いた。生涯スクラッチを誓ったのだが、もっと練習をして欲しいものだ。M原君は、相変わらず上手い。バーディー3つの82。完敗でした。 天気も良く、気温も春並で最高の一日であった。



2007年1月22日月曜日

春を待つ~モーツァルトを語る 第8弾

Mozart14 第八弾は、春を待つこの時期にふさわしい「ヴァイオリンソナタ 第28番 変ホ短調 K304」だ。何故この曲を選んだか。それは数あるヴァイオリンソナタの中で唯一短調で書かれた曲だからである。K301からK306のヴァイオリンソナタは通称「マンハイムソナタ」と呼ばれている。しかしこの曲はパリで完成している。第1楽章の冒頭のピアノとヴァイオリンのユニゾンはとにかく悲しい。まるでシチリアーノのようなメロディーだ。深い寂寥感。しかしこれを突き破るような長調のテーマ。そしてまた悲しみのメロディーに。音楽性の詳しくは{池晋}が書いている(モーツァルトの音符たち)ので省略だ。私が好きなのは、何といっても第2楽章の冒頭である。ピアノで始まり、ヴァイオリンで繰り返すこの第1テーマは、「はかなく切ない」とはこの音であるとしか言いようがない。やっぱりモーツァルトはすごい。それでは、k.304.2.(クリック)をお聴きください。 コメントもお寄せください。



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2007年1月18日木曜日

海嘯

Photo_4 田中芳樹作「海嘯」という本を読んだ。南宋王朝が元に滅ぼされる時、最後まで忠義を尽くした文天祥を主人公とした作品だ。怒涛の鉄騎元軍の前に兵は倒れ、幼帝は入水、十万余名が殉じる。史上最大の亡国の悲劇のなか、運命に抗い、己を貫いた男たちを描いている。海嘯<カイショウ>とは、潮津波のことで、満潮時に河川を壁のようになって遡っていくことらしい。中国の銭塘江にて見ることが出来る。物語は、張世傑・陸秀夫も登場。この三名は「亡宋の三傑」と呼ばれている。最後の幼帝「衛生」入水のシーンは一読の価値アリ。





2007年1月16日火曜日

国歌

タイトルは、「国歌」だが別に国粋的なことを書くつもりはない。まずフランス国歌「ラ・マユセイエーズ」について。その歌詞の日本語訳を見ると驚かされる。



祖国の子どもたちよ、栄光の日がやってきた!



我らに向かって、暴君の血塗られた軍旗がかかげられた



血塗られた軍旗がかかげられた



どう猛な兵士たちが、野原でうごめいているのが聞こえるか?



子どもや妻たちの首をかっ切るために、



やつらは我々の元へやってきているのだ!



武器をとれ、市民たちよ 自らの軍を組織せよ



前進しよう、前進しよう!



我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!

日本の「君が代」は天皇賛歌だと批判されるが、フランス国歌に比べれば、可愛らしいもんだと思う。



さて本題に入ろう。非常に美しいメロディーの国歌がある。サッカーワールドカップで何度も聴いた。そう ドイツ国歌である。ドイツ国歌は、ハイドン作曲 弦楽四重奏曲OP76-3 第77番ハ長調「皇帝」なのだ。もとはこれは、オーストリア国歌だった。なにせハイドンはオーストリア人なんだから。快活かつさわやか そして甘美。そんな曲である。それでは、原曲 emperor_poco_adagio_cantabile  (クリック)をお聴きください。



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2007年1月15日月曜日

陽虎

春秋戦国時代きっての奸雄・大悪党と呼ばれているのが「陽虎」である。論語では{陽貨}で登場するが、孔子はこの陽虎が苦手であったというより似たもの同志であり宿敵であり受け入れがたかったようだ。白川静氏は、孔子の幻影であったと述べている。魯において武力と政治力で陽虎がやろうとして失敗したことを、孔子も策略でもって行なおうとして同じように失敗するのである。陽虎は容貌がかなり孔子に似ていたとも言われている。その為、放浪時に間違えられて、孔子は殺されそうになっている。{史記によればだが}



「論語」陽貨篇の冒頭に二人の対面シーンが描かれているのだが、それはそれはおもしろ。何故かと言うと、陽虎の問いに孔子はぐうの音もでない有様で、すかしているからだ。



陽貨欲見孔子、孔子不見、歸孔子豚、孔子時其亡也、而往拝之、遇諸塗、謂孔子曰、來、予與爾言、曰、懷其寳而迷其邦、可謂仁乎、曰、不可、好從事而亟失時、可謂知乎、曰、不可、日月逝矣、歳不我與、孔子曰、諾、吾將仕矣



陽虎が孔子に面会しようとしたが、孔子は避けて絶対に会わなかった。そこで陽虎は(「礼」を罠に使う)孔子に蒸し焼きにした豚を贈った。(地位あるものの贈り物には、必ず参上して挨拶を返すのが礼である)孔子は陽虎の留守を見計らって、返礼に出かけたが、途中で出くわしてしまった。いわるゆ待ち伏せってやつだ。

陽虎が言う。
「来なさい。私はあなたと話がしたいのだ。孔先生はせっかく宝をもちながらも役立てず、国を乱れたままにして仁といえますか?」



孔子「否、もちろん言えない。」



陽虎はさらに言う。



政治に興味がありながら度々その機会を逃して智といえますかな?」



孔子「否、もちろん言えない。」



陽虎は続けて言う。



「月日は去り行く、歳月は待ってはくれないものだ。私に仕えてはみぬか?」

子は言った。
「分かりました、ご奉公しましょう。」

しかし、孔子は陽虎に仕えていない。白川氏は、一歩間違えば孔子は理想態からはずれ陽虎になってしまう。それをとにかく恐れていたと述べている。しかし「論語」にちゃんとこの篇があるのが不思議だ。いずれにしても、宿命のライバルは、こんな時代からあったのだと思うとおもしろい。陽虎は魯の失脚後も晋の趙鞅の覚えめでたく庇護を受けている。陽虎もまたすぐれた巫師であったのだろう。悪党だが中々恰好いい。







2007年1月13日土曜日

陋巷(ロウコウ)に在り

Roukou 春秋戦国時代、孔子最愛の弟子・顔回を主人公にした大河歴史小説にして、一大サイキック伝奇巨編、酒見賢一「陋巷に在り:全13巻」読み終えた。流石に12月頃から読みはじめひと月近くかかってしまった。聖人と教えられてきた「孔子」の人間臭さや、顔回が何故第一の弟子なのかを裏付ける独特の世界観がすばらしかった。「儒教」の儒とは、もとは雨乞いをする巫祝という白川静先生の解を元に、原儒(シャーマン)の出である顔回の圧倒的な深さ・強さをまざまざと見せつけ物語に引き込んでくれる。おみごと!!というほかない。夾谷の会に始まり、陽虎(陽貨)のクーデター、三都毀壊・女楽事件などを交えながら、出魯までを描くが、原儒と孔子儒と分け、「怪力乱神を語らず」の孔子の姿とそれを唯一知る顔回との信頼関係が垣間見えて思わずほくそ笑んでしまう。この小説を読めば、何故、孔子が顔回の死に際して「慟し」たかわかるであろう。



2007年1月9日火曜日

2007年初打ち

W03_2 2007年 打ち始めは「姉ヶ崎カントリー倶楽部」であった。おとといの予約をしていたのが、どう見ても雨なので今日に変更してのプレー。その結果、見事な晴天。それほど寒くもなく、キャディーも優秀。駄目なのはスコアのみ。ガクッ!! 53-44の97。かろうじて100を切れた感じだ。この日のドライバーは文句のつけようがなく、距離もかなりのもの。ERCⅢ(SR)を完全に自分のものに出来ていた。しかし、アイアン・アプローチ・パットはガタガタ。やはり冬芝はゴマカシはききませんね。コースは、自宅から30分と近く、最高でした。西・東と36ホールあるのですが、今回は西コースでプレイ。距離はたっぷりで、特にミドルは、タフ(6474ヤード)。しかしフェアウェーは比較的広いので思い切って飛ばしていけます。スコアは、不満足だったが、比較的楽しい初打ちであった。



2007年1月8日月曜日

白虎隊

年末年始になると、お馴染みのように「白虎隊」がとりあげられる。そこに、非戦闘員であった16~17歳の少年までも盾として担ぎ出した当時の大人達の非は語られない。勿論、当時すでに会津領民に見限られていたこともである。家永三郎《日本の歴史4》に次の記述がある。「若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、村役人を新しく選挙した。」と。すなわち会津農民や領民はあかの他人といわんばかりに会津藩をすでに無視していたのだ。そればかりでなく会津武士(かの白虎隊からも)の死骸から衣服や金目のものを剥ぎ取って売った。戦後、農民達は藩士の死体収容すら拒否したのだ。もっとも会津藩士たちも農民たちの田畑を踏み荒らし、 官軍の休息場所を無くすといって村々に火を掛けて焼き払った 住む家も耕すべき田畑も失った農民たちの怒りはいかばかりであったのであろう 。領民を蔑ろにし、女(娘子軍)子供(白虎隊・幼少組)にまで闘わせるぐらいなら降伏しとけばよかったのだ、と私は思う。 松平容保は、明治に入ると、鳥取藩での蟄居を解かれると、東京は目黒の豪邸でのうのうと過ごしている。上級武士も藩の財産をネコババして、会津や東京で悠々自適の余生を送った。それを「会津士魂」と賛美できるであろうか。否である。そして、その後、白虎隊は、ヒトラーやムッソリーニに賞賛され、(ヒトラーユーゲントは、わざわざ白虎隊の墓まで来ている。ナチは石碑を贈り、ムッソリーニは、豪勢な記念碑まで贈っている。)日本の軍国主義者たちに利用され、学徒出陣少年兵の象徴となったことも、 神風特攻隊も国の為に戦って死んだ青年達もこの白虎隊が模範であったことも忘れてはならない。いつもいつもただ時代に立ち向かった少年達の悲哀しか語られない。残念なことだ。



2007年1月5日金曜日

2007年 正月 - モーツァルトを語る 第7弾

23083561 12/31NHK モーツァルト・イヤー2006ハイライト 当然みてしまいました。そのあと録画で、何度もある1曲だけを繰り返し繰り返し聴いています。クレーメル・バシュメット う~んジジイになったなあ、いやいや最高でした。ということで第七弾は、「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調 K.364」である。やはりこの曲は紹介せねばならないだろう。アインシュタインは「ヴィオラはより明るく、より輝かしく響いて、オーケストラのヴィオラ群からくっきり浮き出なくてはならない。この二重コンチェルトは、モーツァルトがヴァイオリン・コンチェルトで追求したものの頂点でもある。」と書いている。悲哀の満ちた第2楽章を聴くと、ヴァイオリンとヴィオラのすすり泣きに思わず涙してしまうのは私だけではないだろう。単に古典派音楽と呼んでいいはずがない。単純にそう思う。23歳の青年が何を思い描けばこのメロディーが出てくるのであろうか。母の死か、アロイジアとの別れか などとよく書かれているが、果たしてそれだけだろうか。凡庸なる者には理解できないか。まあとにかくsymphonia_concertante_in_es_dur_andante_k_364 (クリック)をお聴きください。 若き日のクレーメル、指揮アーノンクール(ウィンフィル)でお届けします。よかったらコメントもお願いします。



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神田明神

今日は、会社関係で「神田明神」へ初詣に出かけた。あまりの人の多さにびっくり。やはり今日は大手町・丸の内界隈のサラリーマンの神田明神への参拝が多いらしい。お参りするのに30分程並んでしまった。神田明神は、銭形平次や平将門で有名であるが、 Photo神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神様で、大黒様・恵比寿様が御祭神である。なににつけ2007年も無事に過ごせますように。