2009年10月14日水曜日

針の眼

Photo_2 あの「大聖堂」の著者ケン・フォレットの処女作「針の眼」をやっと見つけた。昔、ハヤカワから出ていたらしいが、創元推理文庫から、2月に出ていたらしい。スパイ・サスペンスの金字塔 といわれただけある。あっというまに読み終えた。



上陸地点はカレーかノルマンディか。英国内で活動していたドイツの情報将校ヘンリー(暗号名;ディー・ナーデル すなわち針)は、連合軍のヨーロッパ進攻に関する重大機密を入手、直接アドルフ・ヒトラーに報告するため祖国を目指す。



事実、英国情報部が血眼になって探しても唯一摘発を逃れたドイツのスパイ グウィン・エバンス 暗号名ドナルドという人物がいた。彼がモデルとなっている。



物語は、3つの事象が同時進行してゆく。ディ・ナーデルの動きと彼を追う大学教授にして、英国情報部Mi5のゴドリマンの追跡とそして一見何の脈絡もないスコットランド沖の孤島に隠生している元パイロット・デービットと彼の妻ルーシーの生活。この3つが、終末に向けた一つに結びつく時・・・・



是非お勧めです。



2009年10月13日火曜日

龍馬を殺したのは誰か

Photo 幕末最大のミステリというべき龍馬殺害事件に焦点を絞り、フィクションを排して、土佐藩関係者、京都見廻組、新選組隊士の証言などを徹底検証し、さまざまな角度から事件の真相に迫る歴史推理ドキュメントです。



2009年10月12日月曜日

上海旅行 最終日 ~ 朱家角

最終日は、17時のフライトの為、14時に宿泊のホテルにて待ち合わせ。午前の時間を使って、上海郊外で一番近い水郷の町「朱家角」へ出かけた。上海中心部のホテルから、1時間あまり。街は9つの長い町並みが河沿いに伸びて千棟以上の明、清時代の建物が並び、て古い石橋が36個ある。



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ここでは、ゴンドラならぬ小船で遊覧を楽しんだ。(ここは中国のベニスといわれている)



203 1999年、揚州出身の江沢民国家主席がこの地を訪れた折り朱家角の街並みにいたく感動され北京政府にそのまま残すよう指示したため、そのまま保存され生活が営まれているらしいです。細い路地には、たくさんの地元の土産屋さんが並んでいます。







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明・清代の街並みと現在に受け継がれる古鎮での人々の生活を垣間見る事ができた。お土産もここでいくつかGETし、昼に上海中心地<淮海中路>・・銀座のような所 へ戻り、昼食。



蘇州ラーメンを食べようと、「滄浪亭ツァンランテイ」という人気の麺専門店へ。



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メニューは、中国式簡略漢字だけで読めねー。しかたなく二人ともガイドブックに掲載の小海老を蟹味噌ベースで炒めたもの(蝦蟹面)をトッピングするラーメンを注文。いやーあっさりでうまい。こちらも満足 満足。



その後、タクシーでホテルへ。時間まで、上海のミスタードーナツで時間つぶし。日本にはない種類を一つずつ食べながら最後の時間を過ごした。



あっというまのスケジュール満載の4日間だったが、楽しい旅行であった。



自分の土産は、28元=420円の本のしおり(金属製)、かみさんは、Duty Free で、フェラゴガモの財布と香水=48000円。あれっ 100倍以上・・・・・・



2009年10月11日日曜日

上海旅行 3日目 ~ 蘇州

3日目は、朝から「蘇州」へ向かう。高速道路を利用して1時間半あまりだ。この日は、もう一組の二人連れと一緒。(一人は、コブクロ黒田のような大きなおっさん、歳は55くらいか、連れは何故か上海の中国人の女の子。どういう関係や!!)まあ、それは無視して、観光にいそしむ。まずは「留園」。



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中国四大名園の一つだ。ちなみにあとの3つは、同じ蘇州の「拙政園」・北京の頤和園・河北省承徳市の避暑山荘。



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それから、臨済宗仏教寺院、唐代の詩人張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑で名高い「寒山寺」へ。



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度重なる火災に遭い、現在の建物は清代に再建されたものらしい



3つ目は、「虎丘」へ。呉の夫差が、父 闔廬(コウリョウ)の為に建てた陵墓である。夫差とは、「臥薪嘗胆」の臥薪で有名、越王 勾践と戦い最後は敗れた呉王である。傾城の美女<西施>が越の策で夫差に贈られたことも有名だ。闔廬が剣が大好きだったことで、3千本の剣が埋められたとも言われている。



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そして、丘の上には、中国のピサの斜塔とも言われている虎丘塔が聳えている。



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確かに少し右へ傾いていました。



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この日も、お腹いっぱい中華料理を食べ、夜にはマッサージへ出かけた。ガイドブックに載っており、ガイドの石さんもお勧めの南京東路にある『桃源郷』という店へ。私は足ツボ、ママは、全身オイルマッサージを頼んだ。結局、私は、肩・首を追加、かみさんも頭皮マッサージを追加した。しかし、かなり気持ちよく、疲れがとれました。



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2009年10月10日土曜日

上海旅行 2日目(其の三)

夕食は、黄浦江沿い浦東側のレストランで、海鮮料理をいただく。



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船からの両岸の夜景は、すばらしいの一言に付きました。



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↑ 浦東側の夜景(東方明珠タワーをはじめ陸家嘴金融・貿易開発区の高層ビル群)



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↑ 外灘側の夜景(左:上海浦東開発銀行・右:上海海関)



2日目も充実の一日でした。



上海旅行 2日目(其の二)

2日目、昼食は、「飲茶」の店へ移動。最後のでてきたスイーツは可愛くおいしかった。



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午後は、「上海博物館」からスタート。



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2時間の時間をもらったが、とてもとてもゆっくり全部を見て廻ることはできない。足早に各カテゴリーをこなした。紀元前3000年まえ清朝までの銭・印・剣・甕・壺・書・絵画・像など見所はいっぱい。



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めざまし「大塚さん」似の仏像もあったりして、すでに歩きすぎで足にきながらも堪能した。その後、「」という場所へ。ここは、さながら青山といった雰囲気だった。(青山にほとんどいったことはないが)ここでは、カフェで休憩。そして、愈々お楽しみのナイトクルーズへ。



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上海旅行 2日目(其の一)

2日目は、上海市内観光。まずは、租界時代の上海の中心地「外灘」(ワイタン)へ。1907年に造られたという外白渡橋から写真を撮る。「外灘」界隈は残念ながら、道路工事に真っ最中で、散策は叶わなかった。ここは、近代的な上海の風景と違い、欧米様式の古い建物が立ち並んでおり、不思議な感覚にとらわれます。





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次に向かったのは、名園「豫園(ヨエン)」。ここは、江南式庭園で、約400年前、明の時代に18年かけて造られたものだ。豫園の「豫」は「愉」に通じ、「楽しい園」という意味らしい。また豫園周辺の豫園商城は、多くの商店が軒を並べる地域であり、中国各地からやってきた観光客でごった返していた。(下の写真は豫園商城)



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豫園は贅を尽くした建物、家具もさることながら、太湖石という石灰岩が水や波の浸食で穴が空いた珍しい石や龍で形作られた壁が珍しく目を見張った。



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途中で、お茶を楽しむ。もちろん、ツアーならではの、提携店での休憩だ。鉄観音、ジャスミン、カテキン茶などを戴く。お土産にお茶を買ったついでに、紫砂で作られた「きゅうす」を購入。これが、15000円した。これをしようするとお茶は、3日間は、そのままの状態で変質せず、保温性も高い優れものらしい。まんまと買わされた。でも本当にいいものらしい。豫園を見学した後は、近くの上海老街を散策。ここは、上海の浅草のような場所。





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2009年10月9日金曜日

上海旅行 1日目

夫婦でのハネムーン以来の海外旅行に。台風18号を横目に、成田から上海へ3時間。やはり意外と近いものだ。台風の影響もあり、現地添乗員(パルピン出身の石さん)一人に、我々2人という贅沢な旅行の始まりだ。上海 浦東(プードン)空港から街までは、リニアモーターカーで7分半。時速は、最高431kmまで出ていた。さすがに速い!!



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↑写真は、400km超えで撮影。そこからまず、東方明珠塔(ドンファンミンジューター)へ。テレビ塔としては世界第三位、アジアでは第一位の高さを誇る、468mのテレビ塔だ。球体部分が展望台となっており、どの展望台からも周囲360度がぐるりと見渡せる。



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2000万都市「上海」を一望。大いにその眺めを堪能した。



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1日目の観光は、とりあえずここだけで、早めにホテルで一休み。ホテルは、「ルロイヤル・メリディアン上海」。部屋はグレードアップし、スイートにしたので広くて快適だった。



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ホテルは、南京路歩行街という場所(渋谷のような街)の近くにあり、夕食まで時間があったので散策し「一茶一坐」というスイーツ&カフェで喉を潤した。かみさんの注文した「タピオカ入りミルクティー」はうまかった。



夕食は、当然の上海料理。そして、この日の最後のお楽しみは、上海雑技団鑑賞。



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伝統的な衣装と雑技のレベルが高いことで有名な「白玉蘭劇場」という所。この日は、一度のミスもなく演目をこなしてくれたのには、感激した。写真が撮れなかったのは残念だ。空中から吊られた紐に絡まって男女二人が踊る演技とバイクを使ったアクロバットには驚嘆させられた。ブラボー!!白玉蘭。 ちなみに白玉蘭とは、ハクモクレンで上海の市の花です。



2009年10月4日日曜日

始皇帝

Photo_2 塚本青史著「始皇帝」を読む。暴君、そして英傑!血筋という運命、乱世に飛び交う謀略、三度の暗殺未遂を乗り越え中華を制したファースト・エンペラーの生涯を描ききる、畢生の書き下ろし。



中国の事をChina(チャイナ)と言うが、これは「秦」の事である。話はそれるが、何故 日本人は、かの国を、「中国」と呼ぶのだろう。はたまた呼ばされているのか。周囲の国々を蔑視する中華意識を意味するのが中国という言葉だ。それならば、チャイナでいいではないか。漢字にすれば「支那」だ。これが、世界共通語である。しかし「支那」という漢字は、何故だが、蔑称的なイメージがつきまとうので、やはり「チャイナ」でいこう。



話を戻そう。本書は、「始皇帝」(政)が人質として、趙に幽閉されていた時代から始まり、不老長寿へ憧れ暗愚の暴君へ変貌するまでを描く。とりたてて変わった話はない。本書の面白いのは、時代から取り残され消えていった墨家の姿を何気なく滑り込ませているところだろう。



2009年9月28日月曜日

火の路

Photo2松本清張著「火の路」を読む。1970年代の作品だ。飛鳥、奈良時代の日本に古代ペルシア文明がかなり影響を与えたと見る、新進の考古学者・高須通子が、イランを訪ねる物語だった。奈良県飛鳥地方には酒船石(さかふねいし)はじめ猿石、益田岩船(ますだのいわふね)といった謎の石造物があり、清張 は飛鳥時代に渡来したペルシア人が遺したとの考えを高須通子を通して語る。



シルクロードを、商人として東奔西走したペルシャ人により古代ペルシャの広い信仰を集めたゾロアスター教(拝教)の聖なる火と、火が発する言葉が、日本の仏教とともにはいってきたのだ。人を陶酔させる薬草種ハオマ酒を飲んで、神との会話を可能にする「ハオマの密議」というゾロアスター教の儀式も、今も日本の多くの寺に残る密教の護摩焚きの火として残されている。また仏閣に多く見られる蓮の花が放射した模様は、ゾロアスター教の神太陽の放射図を模して仏教の国に入って来たもののようだ。遠い記憶を辿ると、ペルシャと飛鳥を結ぶ路があった。火と火を結ぶ路、その路を松本清張は「火の路」と名付けた。



2009年9月23日水曜日

軍艦武蔵

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手塚正己著「軍艦武蔵」を読む。十数年前に、吉村昭氏の「戦艦武蔵」を読んだが、それはあくまで武蔵そのものの生涯といった内容だった気がする。まあ、(それも夢中で読んでいたのだが)。その頃は、まさしく太平洋戦争オタクというほど、太平洋戦争物に没頭していて、たぶん300冊くらい購入して読んでたか。さて、久々の太平洋戦争関係書だが、あったぱれ手塚氏の、生存者への克明なインタビューにより、武蔵に乗り、また関わった人々の知る武蔵の生涯とそこにいた人々、特に若者の突き付けられた現実の有り様を見せつけてくれた。帝国海軍の夢と野望を賭けた不沈の巨艦「武蔵」。乾坤一擲「捷一号作戦」でのサマール島沖での壮絶な最後。上下巻合わせて1400ページ弱に及ぶ、大変な労作である。記録文学の面白さを存分に味わった。しかし、それにしてもやっとの思いで武蔵からの生き延びた青年たちの、その後のフィリンピンでの壮絶な死が痛ましくてならない。



2009年9月22日火曜日

鹿島神宮

東国三社と言われている、「鹿島神宮」「息栖神社」「香取神宮」を参拝。鹿島・香取は、平安の昔は、伊勢とならび3つだけ神宮と呼ばれた由緒正しい社である。官幣大社でもある。まずは、鹿島神宮へ。自宅から北関東自動車道で40分。水戸時代に、ほぼ毎週通過していたが、参拝は初めてだ。



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上の写真の大鳥居(ニの鳥居)から、まっすぐ、神門・拝殿・奥宮と道が伸びている。しかし、実は鹿島神宮には、別の場所に、一の鳥居が2つある。1つは、鹿島神宮の北東、鹿島灘に面した明石の浜という所だ(東の一の鳥居)。この鳥居から鹿島神宮本殿そして南西の香取神宮本殿へと一直線で結ばれているのだ(45度線)。2つ目は、鹿島神宮の南西、北浦に面する湖畔「大船津」というところにある。こちらが真の一の鳥居だ。港・船・航海に関係していることを意味するのであろう。「香取神宮」も一の鳥居が、鹿島に向かう利根川沿いに配されており、両神宮が一体といわれる由縁であろう。



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拝殿・本殿には、いたるところに、ご神紋「三つ巴」が配されている。そして、その奥には、巨大かつ高いご神木が美しい。実はこの本殿はめずらしく北面をしているのである。通常は、逆の南面が多いが。これは、蝦夷の地である東国を征圧する拠点としての「鹿島神宮」が、遠く東国に睨みを利かせているからだそうだ。ちなみに北面する神社が全くないわけではない。厳島神社・吉備津神社・吉野宮などが有名だ。



さて、ご祭神は、出雲国譲りの主役「武甕槌神」である。武神として大国主命に国譲りを迫り、その息子「建御名方神」を諏訪へ追いやった神である。そしてここにレイラインが存在する。鹿島神宮と諏訪神社のご神体守屋山が、ほぼ東西一直線で結ばれているのだ。守屋山山頂の位置(北緯35度58分04秒)ー 鹿島神宮の本殿の位置(北緯35度58分08秒)これは、春分・秋分の日に、太陽は、鹿島から守屋山へと通過することを意味する。勝者「武甕槌神」から日が昇り、敗者「建御名方神」へ日が沈んでゆくというわけだ。



しかし、鹿島神宮はこれだけではない。



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本殿から奥へ進むと奥宮がある。ここには、「武甕槌神荒御魂」が祭られているが、そこから南へすすむと「要石」なるものがある。わずかに地中から顔をだす凹型の石だ。要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の 頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地 震がないと伝えられている。水戸の徳川光圀公が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘らせたが、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできなかったと伝えられる。そして「香取神宮」にも要石がある。その石は凸型で、こちらは、大鯰の尾を押さえているという。また、この2つの石はつながっているという話もある。おもしろい。



最後にもう一つ。中央構造線について書いておきたい。



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関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層をそう呼ぶ。そして、この線上には、有名な神社仏閣が位置しているのだ。南から、阿蘇神社・幣立宮・高千穂各社・日前神社・高野山・丹生神社・伊勢神宮・豊川稲荷・秋葉神社・諏訪大社・氷川神社・鹿島神宮・香取神宮・・・。そうそうたる霊場である。ゼロ磁場が存在するこの線上だからこそ、パワースポットといわれるのだろう。これら、社寺は地中のエネルギーを鎮める役割を背負っているかのようだ。鹿島神宮はその最東端に位置するのである。また、地図真ん中を見てもらい。諏訪大社は、この中央構造線だけでなく、フォッサマグナの西側線(糸魚川静岡線)とも接している。そして氷川神社は、フォッサマグナの東側線(柏崎千葉線)にも接しているのである。これこそまさに鎮座!!



息栖神社

二番目は、神栖町という所にある「息栖神社」。鹿島神宮の南に位置する。



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息栖(イキス)神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神、天鳥船神を相殿の神として祭られている。鹿島・香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社だ。岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神としての御神徳が顕著で神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものである。また岐神(くなどのかみ)は、道の別れ目のところで道を間違えないように教えてくれる神で、東国開拓の折り、出雲の国から 東国に武甕槌大神(たけみかずちのお おかみ)を先導した神様である。そして 天鳥船神は国譲りのさい、武甕槌大神 を出雲の国に先導した神様だ。神栖にありながら「息栖」。たぶんイキではなくオキではないか?住吉三神つながりで神功皇后=息長帯姫オキナガタラシヒメのオキではないか?



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ご神紋は、鹿島神宮と同じ「三つ巴」のようだ。そしてここ息栖神社は、香取神宮の真東に位置する。香取神宮ー北緯35°52′58″息栖神社ー北緯35°52′57″である。鹿島ー息栖は、残念ながら真南ではないが、香取ー息栖も鹿島ー息栖もその距離9kmで、三社は綺麗な二等辺三角形を描く。おもしろい。



香取神宮

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最後に「香取神宮」を参拝。ご祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)。鹿島神宮のご祭神 武甕槌神と経津主神は、同一神ともいわれている。また、『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。葦原中国平定で武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。しかし、フツというのは、スサノオの父の名前とも言われ、布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。そして、香取神宮が鎮座するこの山の名前は「亀甲山」。亀甲は、出雲の印。また、経津主神はスサノオを祀る「八坂神社 祇園祭」に繰り出す 荒久の山車飾りにも登場する。やはりどう考えても香取は出雲系???。



それはさておき拝殿=本殿は、息を飲む美しさであった。



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檜皮葺屋根、黒漆権現造りで周囲の朱色に対比して荘厳な雰囲気をかもしている。ご神紋は、「五七の桐」(下写真左)といわれているが、「五三の桐」紋(下写真右真ん中)も配されていた。 (*写真はクリックで拡大できます)



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こちらは、鹿島神宮と反対に本殿は、南面している。二社で一体ということか。ご神木の三本杉も誰しもが目を奪われるすばらしいものだった。旧参道を歩いてゆくと、そこには奥宮がある。経津主神の荒御魂を祀っている。これも鹿島神宮と同じ構造である。そして、その左奥に、要石が。



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確かに、凸型だった。東国三社の神域を堪能した一日であった。