岡田秀文著「本能寺六夜物語」を読む。
織田信長が、天下統一を目前にして斃れた「本能寺の変」。
後世伝えられた明智光秀の謀反には、決して公にできないある事情が隠されていた。
それを知る織田家家臣、侍女、町民達など、本能寺の変の騒動を身近に体験した者たち六人が各々に見聞きしたことを語る。してその真相とは。・・・・
岡田秀文著「本能寺六夜物語」を読む。
織田信長が、天下統一を目前にして斃れた「本能寺の変」。
後世伝えられた明智光秀の謀反には、決して公にできないある事情が隠されていた。
それを知る織田家家臣、侍女、町民達など、本能寺の変の騒動を身近に体験した者たち六人が各々に見聞きしたことを語る。してその真相とは。・・・・
伊東潤著「城を噛ませた男」を読む。短編集である。
「全方向土下座外交」で生き延びた弱小勢力もついに運の尽きが。起死回生はあるのか(見えすぎた物見)。
いずれも切れ味鋭く、優れた短篇のお手本ともいうべき出来ばえではないだろうか。面白かった。
朝、3時半起床。4時出発。箱根の右ルートが事故で通行止め。そのため予定より30分時間ロスしたが、8時に「秋葉山本宮秋葉神社上社」到着。静岡神社巡りの始まり。
標高866m 秋葉山山頂付近に上社はある。どうやら今朝の参拝一番乗りのようだ。
現在の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。
火の幸を恵み、悪火を鎮め、火を司り給ふ神様です。
江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀(まつ)る秋葉社(あきはしゃ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。
上社から下社まで、車だと一度、秋葉山西側を下り再度東側を登るため30km以上離れています。
下社は、鬱蒼とした森の中にあるようです。
階段を登ると、杉の高木に囲まれた社殿が姿をあらわします。
本殿は撮影ができませんでした。
社殿の右手に「六所神社」があります。
上社と違い下社は、まさに森の鎮守といった趣でした。
番傘が素敵なので撮影しました。
遠江国一の宮「小国神社」を参拝です。式内社にして国弊小社である。
本宮山の南側の山麓に鎮座する。「小国」という社名は、出雲の「大国」に対する遠江の美称であるとしている。
創建時期は不明だが、社伝によれば、欽明天皇16年(555年?)2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まる。
もう一つの遠江国一の宮「事任八幡宮」にも参拝しました。
ご祭神は、己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)。天児屋根命の母神と言われています。
東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、多くの人が旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、また江戸幕府も朱印高百石余りを献上するなど崇敬を集めた。また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。
以前、静岡に4年住んでいました。勿論、参拝したこともありますが、全く覚えていません。ということで、再び参拝しに来ました。
ご祭神 大歳御祖命は倉稲魂神・大年神の母神、別名神大市比売命と言われています。
入母屋造銅瓦葺で、朱塗極彩色。その美しさに感動。妻飾り、兎毛通し「鳳凰」お見事!!
八千戈命(神部神社大己貴命の荒御魂神)をお祀りしています。もとは摩利支天社と称し、徳川家康公の念持仏たる摩利支天を祀っていたそうです。